33.改翔鶴型 瑞鳳・祥鳳と龍鳳 昭和18年10月(1943)の雄姿

    大鳳   神戸川崎  昭和16年(1941)    12・10竣工

    瑞鳳   三菱長崎  昭和17年(1942)    0124竣工
    祥鳳   横須賀        〃           0208竣工
    龍鳳     〃          〃           0613竣工
    駿河   佐世保        〃           0510竣工 

    尾張   大連    昭和18年(1943)      0903竣工
    若狭   室蘭         〃            1103竣工
    
土佐   三菱長崎     〃           1110竣工
    
出雲   室蘭         〃            0202竣工

    上総   神戸川崎  昭和19年(1944)    0115竣工
    薩摩   呉            〃            0119竣工
    相模   横須賀       〃           0604竣工
    
近江   神戸川崎     〃           0801竣工
    紀伊 → 安芸に改名 建造中止
    5035号艦→         〃

  上記3艦は駿河と共に昭和17年に竣工した改翔鶴型の2~4番艦です。完成後、一番艦大鳳と二番艦瑞鳳は呉を基地として瀬戸内海で就役訓練を行った後、三番艦龍鳳、4番艦瑞鳳と共に日本海で修熟訓練を実施しました。基地は舞鶴です。この後同年5月に竣工した5番艦駿河も後に加わるのですが、この時の訓練内容は戦隊単位の行動と飛行訓練が主な内容です。この訓練にはほぼ同時に改装工事を終えた中型空母伊吹型 阿蘇、天城、笠置、伊吹、葛城、生駒、妙義の各艦も加わり、遠くは大連、近くは舞鶴の沖合までの広大な海域で、日本海狭ましとばかりに艦隊・戦隊運動と搭載機の発着艦訓練が繰り広げられました。もじ通り“月月火水木金金”の猛訓練だったわけです。
  
この時、赤城、加賀を中心に翔鶴、瑞鶴を加えた機動部隊は17年5月(1942)に珊瑚海海戦、同年6月4~6日ミッドウェー海戦と戦闘が続いていました。残念ながらこれらの海戦には新鋭空母12隻は間に合いませんでした。いやむしろ今後の東征作戦のために、間に合わせなかったと言った方がよいかもしれません。
  
海軍は昭和12年までに計画していた米太平洋艦隊の漸減作戦を再度検討し、この戦略は米が日本近海に来航することを前提とし、日本に都合の良い条件を並べていること、艦艇や航空機の進歩により今までの想定は当てはまらないと結論しました。日本の優れた諜報機関から入った情報によるものです。
  
これに対して軍令部特別室が新たに作成した新戦略は、機動部隊の航空機攻撃で迅速に太平洋中部までを勝ち取り、五分になってから講和に持ち込むというもので、この作戦の方が実行可能であるという結論に達したのです。かつて漸減作戦はこの時点で破棄されました。 

  艦艇の整備計画もこれに合わせて、長期戦に耐えられる艦船を多数建造する事ではなく、損傷してもただちに戦列を離れ、損害箇所を可及的速やかに修復する後方支援設備を充実することにしました。被害を受けても沈まず直ぐに艦隊に復帰できるロジェスチック体制を作るということです。その上で、日本近海での戦いを前提にしていたそれまでの艦艇は目的のとおり本土の防御に当り、東方に向かって進む艦艇は改翔鶴級の大鳳をはじめとする鳳(おおとり)クラスの4隻、国名級の空母11隻、更に伊吹級10隻、浅間、雲仙級重巡、改大淀、筑後級軽巡、改阿賀野・十勝級防空巡洋艦、改秋月級や島風級の駆逐艦、ロ号潜水艦、大量の松型や海防艦など航洋性を備えた艦となって就役するわけです。

  これは陸軍が中国から撤兵した事や満州での石油発見と生産開始などという
背景があったから出来たわけです。同時にアジアの国々は日本軍の進駐を機会として独立し、交易が始まりました。短期間で対日及び各国間の交易は盛んになり、各国は1943年には驚くほどの経済発展を遂げました。以前から独立国であったタイ王国はインド洋と東シナ海の両方に面している国ですが“バンドン運河”を建設し、マラッカ海峡を通らなくても両海洋を結ぶ流通の要を建設してしまったほどです。繰り返しますが昭和15~16年当時米と戦争をする理由など全く存在しませんでした。でも始まってしまったのです。話が軍艦と離れました、戻します。海軍いや日本軍の戦略変更は米と戦い、米の動きを止めるためには多数の艦艇を持ち効率的な運用を行うことが必要であるとしています。その方針に沿って建造された艦艇が本稿で紹介してきた艦艇たちです。

  話を大鳳に戻しますと、日本海で訓練を終えた空母群はそれぞれ伊吹級の一艦と一個航空戦隊を組み東征の最前線へと進出しました。本稿で示した図は1943年10月トラック環礁における艦姿を元に作成しました。この時の艦載機ですが、戦闘機は紫電改と烈風改の混載、艦攻は天山、艦爆は彗星と一部流星、偵察機は彩雲という編成で開戦時の零戦、99艦爆、97艦攻といった編成から一新しています。各機は防御もコクピットは特に強化され12.7㎜機銃の銃弾貫通を許さない構造となり、搭乗員の生命を守るという課題を解決しました。また、ガソリンの高オクタン価にも成功したため馬力も15%程向上しております。特に変わった点は翼の折り畳み方法でイ-400型に搭載する晴嵐の開発過程で考案した90度前方反転、90度後方折畳方式を烈風改及び流星に採用したため搭載機は若干増加しております。

1943年当時の要目】

基準排水量35800㌧(+2,125㌧) 満載排水量42,025㌧  全長270.5m  水線幅30m  吃水9m(+0.1m)
機関:艦本式ギアードタービン
44軸 出力16万馬力  速力33㌩  燃料搭載量5,500㌧(15㌩で15,440浬) 
カタパルト2基(9月に左舷側新型に交換) 
飛行甲板:265.7m × 36.7m(最大45m)  艦首幅22.5m 艦尾28m 
兵装:65口径10.5㎝連装両用砲×8基 戊式40㎜連装機関砲×19基(38門) 25㎜単装機関銃36基  

【搭載機】

 1943年 : 紫電改×18機  烈風改27機  天山艦攻×12機 流星艦攻×18機 彩雲・偵察×4機  計85機 

         予備機×6

1944年 : 烈風改×42機  流星×39機  彩雲・偵察×4機 計85


                      改翔鶴級 瑞鳳、祥鳳、龍鳳  1943年 10月 トラックにて


33-2.  昭和18年(1943)1月29日~30レンネル島沖海戦参加時の空母駿河。

   ガ島への兵力輸送作戦を実施する米艦隊(護衛空母2隻スワニー・シェナンゴ重巡3隻ウイチタ・シカゴ・ルイスビル、軽巡3隻クリーブランド・モントピリア・コロンビア、駆逐艦8隻、輸送船15隻)を攻撃。空母駿河は6航戦の僚艦“葛城・生駒・妙義”と共に米輸送船団が企図するガ島への兵力輸送阻止を実施。6航戦には重巡石鎚(いしづち)と竜王(りゅうおう)が配属される予定であったが、両艦は竣工間もなく習熟訓練中であったため、臨時に4航戦に配備されていた朝日・穂高が護衛任務に就いた。米は護衛空母による船団護衛の陣をひきガ島を目指していたが08:22偵察のため発進していた天山艦攻により発見された。
  ―敵発見!空母2、巡洋艦6、駆逐艦・輸送艦多数。本隊よりの方位170度 距離180海里 08:22
  -6航戦はただちに第一次69機を発艦させる。攻撃目標は15隻の輸送艦であった。護衛艦隊は第二次攻撃で攻撃すればよかった。180浬程の近距離だったため40分後には攻撃体制に入り、護衛空母シェナンゴ、軽巡モントピリア、輸送船6隻を撃沈。護衛空母スワニーとクリーブランド、コロンビアを中破、輸送船5隻に損害を与えた。
  ガ島への物資輸送しか眼中になかった米軍の隙を突いた攻撃が成功した戦闘であり日本側の損失はなかった。中破した護衛空母スワニーと輸送船3隻は第二次攻撃及び陸軍の夜間攻撃隊により撃沈された。なお図中の戦闘機は烈風が間に合わなかった為搭載していた零戦である。ゼロ戦が航空戦隊から攻撃をした最後の一幕であった。この一連の海戦の後新型機烈風を搭載することになった。


                      航空母艦 駿河    レンネル島沖海戦  1943年 1月