31.軽巡筑後型日高(C - 55艦)
原型昭和16年起工(1941)
筑後 (ちくご) 昭和19年1月03日(1944) 室蘭工廠
三隈Ⅱ(みくま) 昭和19年1月03日(1944) 室蘭工廠
※予定艦名那賀より改名
日高 (ひだか) 昭和19年2月05日(1944) 室蘭工廠
小矢部(おやべ) 昭和19年2月05日(1944) 鶴見造船所
久慈 (くじ ) 昭和19年2月10日(1944) 室蘭工廠
梓 (あずさ) 昭和19年6月10日(1944) 鶴見造船所
改Ⅱ型(詳細後述予定)昭和16年(1941~42)
大野 (おおの) 昭和19年7月12日(1944) 鶴見造船所
五ヶ瀬(ごかせ) 昭和19年7月22日(1944) 室蘭工廠
物部 (ものべ) 昭和19年8月01日(1944) 舞鶴工廠
須賀 (すが ) 昭和19年8月10日(1944) 鶴見造船所
神通Ⅱ(じんつう) 昭和19年9月05日(1944) 室蘭工廠
番匠 (ばんしょう) 昭和19年9月10日 (1944) 鶴見造船所
吉井 (よしい) 昭和19年10月05日(1944) 室蘭工廠
淀 (よど) 昭和19年11月8日 (1944) 鶴見造船所
狩野 (かのう) 昭和19年12月05日(1944) 室蘭工廠
改Ⅲ型(詳細後述予定)(1942~43)
天龍Ⅱ(てんりゅう) 昭和20年1月10日(1945) 佐世保工廠
由良Ⅱ (ゆら) 昭和20年1月19日(1945) 鶴見造船所
川内Ⅱ(せんだい) 昭和20年2月06日(1945) 室蘭工廠
加古Ⅱ( かこ ) 昭和20年2月14日(1945) 佐世保工廠
古鷹Ⅱ(ふるたか) 昭和20年2月24日(1945) 室蘭工廠
衣笠Ⅱ(きぬがさ) 昭和19年11月01日 建造中止 鶴見造船所
C - 55022(平戸・ひらど) 同上
C - 55023(龍田・たつた) 同上
C - 55024(高砂・たかさご) 同上
C - 55025 ~ C – 55050 未起工
【要目】
基準排水量11,500㌧ 満載排水量14,000㌧ 全長186.7m 全幅19.97m 吃水7.5m
艦本式蒸気タービン10万馬力 33ノット 航続距離15ノットにて11,000浬 乗員1032名
【兵装】
15.5cm3連装×4基 65口径10cm連装高角砲(両用型)6基 40mm連装機関砲×15基(30門) 25mm3連装機銃×6基
搭載機×2機 装甲:舷側127㎜ 防御甲板127㎜ 砲塔前部155㎜
【対抗する米クリーブランド型】
1940年計画 4隻
1941年計画 32隻 ※すごい量ですね!
1942年計画 10隻
合計46隻が計画され、空母インデペンデンス級に改造されたものが9隻、残りの37隻中大戦中に完成したものが27隻。
【要目】
基準排水量11,800トン 満載排水量14,131トン 全長186m 全幅20.2m 吃水7.5m 速力33ノット 10万馬力
15.2cm47口径3連装×4基 5インチ38口径連装×6基 40mm4連装×4基 同連装×4基(28門)装甲:127㎜ 防御甲板127㎜ 砲塔127㎜
戦艦大和が換装工事の真最中であった昭和15年、軽巡洋艦筑後級は戦時海軍拡張計画で建造が決定されました。それまで整備の中心であった防空巡洋艦も一段落し、5,500トン型巡洋艦は旧式化が目立つようになり、艦隊型の巡洋艦の不足は明らかでした。汎用型の巡洋艦が必要との要請に基づいて計画・建造されたものが“筑後”型です。
本艦は米のブルックリン型とその後のクリーブランド級に対抗する航洋型の巡洋艦で大きさもほとんど変わりません。当初は15.5cm砲9門の軽々巡を予定しましたが、前級の最上級の5基15門に比べてあまりにも砲が少ないという意見が多く、併せて軽米巡洋艦が15.2㎝4~5基を搭載するとの情報がもたらされた為3連装を1基増設し4基搭載することしました。この砲は最上に搭載されていた時からその優秀性を評価されていましたが、砲塔の防御力が弱いという弱点があり、採用に当たっては砲塔の防御強化を図ることになりました。防御がほとんど無かったことが幸いし、前面に155㎜の装甲を施し天蓋も76㎜の弾辺防御をすることにより、ごく短時間で砲塔の改装は完了し搭載されました。散布界の小ささはかねてから証明されていましたので運用上も特に問題はなく、偉大なる汎用艦(影では平凡艦)という評価をもらい、艦隊では使い勝手の良さと稼働率の高さで様々な分野で大活躍することになりました。
クリーブランド級の計画に応じて急遽建造が決まったため、船体は建造中の重巡雲仙型の設計を大幅に流用し、基本的には幅は変えず全長が10mほど短縮されています。また、東太平洋での行動を考え、航洋性はもとより居住区の改良、発電機の大型化、冷房設備の拡大、機関のシフト化、レーダー類の大規模な導入と電波干渉の改善、各種指揮装置との連動、などが取り入れられました。
艦隊型巡洋艦の充足が次期作戦の鍵を握っていたこともあって本艦の建造は優先順位が高く、また、数の要望を満たすため50隻もの建造が計画されましたが終戦までに完成したのは20隻でした。
なお本艦の就役が昭和19年から始まったため、5,500㌧型巡洋艦は18年より随時対潜・対空装備を強化し、海上護衛総隊に編入され船団護衛部隊の旗艦を務めることになりました。中には後部に飛行甲板を設け、カ号対潜哨戒機を搭載したものも現れましたが詳細は後述いたします。いずれにせよ、軽巡洋艦“筑後”型の就役はその後の作戦に多大な貢献をしたことは間違いなかったようです。また建造にあたった室蘭工廠が本格稼動し護衛空母と本級を大量建造したことも記憶に残る出来事でした。改Ⅱ型、改Ⅲ型についても追って相違点を発表するつもりです。