32.陸軍特種船 神州丸(しんしゅうまる)型
1.神州丸(しんしゅうまる) 昭和 9年(1934) 12月15日 播磨造船所
改神州丸型
2.扶桑丸(ふそうまる) 昭和11年(1936) 12月05日 播磨造船所
3.大和丸(やまとまる) 昭和11年(1936) 12月25日 播磨造船所
4.敷島丸(しきしままる) 昭和12年(1937) 5月17日 三井玉野
5.秋津島丸(あきつしままる) 昭和12年(1937) 7月18日 日立造船
6.八洲丸(やしままる) 昭和13年(1938) 4月22日 三井玉野
7.瑞穂丸(みずほまる) 昭和13年(1938) 4月30日 播磨造船所
8.龍城丸(りゅうじょうまる) 昭和13年(1938) 6月18日 日立造船
要目【神州丸】
基準排水量7,100㌧ 満載排水量8,108㌧ 全長144m 幅22m 吃水4.2m 機関艦本式ボイラー2基 石川島製蒸気タービン×2基
出力7,500馬力 速力20.4㌩ 上陸用舟艇44隻(大発29隻、小発11隻、支援砲艇4隻) 輸送兵員完全武装で2,000名(2個大隊)
兵装 8cm高角砲×7基 25mm 3連装機銃×4基 カタパルト×2基 搭載機×10機(計画のみ)※ 1941後期艦と同様に改造
要目【改:神州丸型 扶桑丸】
基準排水量8,300㌧ 満載排水量9,350㌧ 全長160.8m 幅22m 出力9,500馬力 速力21.5㌩ 上陸用舟艇44隻
以下同じ
艦載機は廃止、代わりに大戦後期にはジャイロ部隊6機を搭載。
兵装 12.7cm連装高角砲×1基 40mm連装機関砲×8基 25mm機銃×4基 カ号3型哨戒機×6機(2小隊)
※ カ号哨戒機図
今日でいう多用途艦の元祖であり、強襲揚陸艦というジャンルで言えば世界最初の強襲揚陸艦が本艦だといえます。こんなに面白い艦はありません。日本は空母鳳翔でもそうですけど世界発というものが比較的多い国です。近年ノーベル賞の受賞者が多いのも発想の柔軟さとそれを突き詰める忍耐強さ、それと何でもやって見る探究心などが国民的風土として備わっている国だからでしょう。
大正12年(1911)帝国国防方針が決定し、それに基づき昭和5年(1930)頃から大発、小発などの上陸用舟艇が開発、建造されました。陸軍は大陸侵攻のため上陸作戦には熱心だったようでその方法を研究していました。しかし、当時の上陸作戦の方法は日露戦争の頃と変わらず、
・貨物船(輸送船)のデリックによって海上に舟艇をおろす。
・兵士は綱梯子を伝わってその舟艇に乗り移るが重装備と船酔いで体力が弱っているため事故が多く危険。
・また、上陸地点は水深が浅いため小型貨物船しか使えない。
などの問題点が現場より寄せられていました。これらの経過から直接兵員を乗せたまま輸送船から発進する特種船を陸軍運輸部が独力で設計しました。後に海軍が協力することになりますが陸海共同で初めて建造したものが“神州丸”となったわけです。神州丸は上陸作戦に関する上記の問題点を解決した日本陸軍の秘密兵器であり、建造も播磨造船という山間部にある造船所で建造されました。現在の山陽新幹線相生駅のある所で、今はIHI相生工場になっております。主な特徴は以下のようになります。
・船内の舟艇格納庫から直接大発(十四米特型運貨船・後述)を滑走台によって発進する。
・艦尾の扉を開け発進するので安全、迅速に進水、作戦遂行が可能。
・偵察・爆撃ができる艦載機を搭載、発進後占領した現地に着陸または機を乗り捨て搭乗員は落下傘降下する。
・開発途中から海軍艦政本部が参加し、射出口(艦橋直下・帆布張りの処)に搭載機発進用の呉式4号カタパルトを装備した。 (昭和10年・1935)
・両舷舷側にハッチとホイストを装備。舷側からも発進できた。
・小発の発進は船室上部のダビットによる。
これまで世界には無かった艦種であり強襲揚陸艦の元祖です。陸軍は本艦を隠匿するため呼称を“馬匹及重量物輸送船”としたそうですが米にはバレバレだったようです。結局、米は大発を大きくしたLSDを開発建造したわけです。
また本艦はジャワ島上陸作戦に従軍中、スラバヤ沖海戦で重巡最上が敵重巡ヒューストンを狙って放った味方の魚雷に当たって鎮座するという経歴もあります。変わった経歴の持ち主でしょう?詳しくは「陸軍 神州丸」で検索すれば詳しく記されています。ご一覧下さい。
さて当艦ですが神州丸を含めて8隻が建造されました。陸軍は神州丸の実績を踏まえて、これを成功艦とみなし、2年後、航洋性をもたせる為艦首及び艦尾を改良し、全長160.8mに増大した準同型艦7隻を陸軍の予算で建造しました。
これは石原寛治らの努力により昭和12年の第2次上海事件(1937・8)を1年で停戦に持ち込み、大陸からの撤退が出来たため、予算を獲得できたからです。同時にこの決定に依り昭和13年より広島第5師団、姫路第10師団、仙台・宇都宮22師団などの3師団が支那派遣軍の任を解かれ、他の支那方面の師団も国民党政府との停戦により内地に引き上げることになりました。その後、上記3師団はそれぞれ海軍陸戦隊と共に機械化師団化し、神州丸級に乗船し敵前上陸する上陸専門師団になります。つまり日本版の海兵隊の第一歩となったわけです。
神州丸級は上陸部隊の専用艦艇として上陸作戦に参加しましたが、無論この8隻では不足であり多数の従来型貨物船も参戦しました。しかし、これらの船舶は徴用したものではなくリバティー型同様急速建造されたものがメインです。改造するより建造を優先するという方針だったのです。なぜなら、とにかく船舶が足りない、いくらあってもいいという現実があったからです。総建造数は8級900隻に及びました。この中には高速輸送艦も200隻含まれますが松型と同じくらい大きさではなく7,000㌧級の大型のものです。神州丸級はこの後改良拡大型であるあきつ丸、にぎつ丸、ときつ丸などに発展していきますが、これらについてはいずれ触れます。結局、航空機を搭載して上陸地点を空から攻撃することが大事な露払いになるわけです。
大戦劈頭の上陸作戦に神州丸級が果たした役割は大きくジャワ、シンガポール、蘭領インドネシアなどでその威力を発揮しました。扶桑丸以下は巡航速力を18ノットとしています。
この船についてはまだまだ書き足りないのですが内部が分からないのでこれ以上の記述は止めます。