28.給油艦足摺型

   足摺   三菱長崎   昭和16年(1941)   130日竣工
   塩屋      〃       昭和16年(194111月09日竣工
   洲崎   播磨造船   昭和17年(1942)   408
   高崎   横浜船渠   昭和17年( 〃  )   613
   剣崎   日立因島   昭和17( 〃  )   707
   三浦   播磨造船   昭和17( 〃  )   811
   野島   新潟鉄工   昭和17( 〃  )   927
   室戸   播磨造船   昭和17( 〃  ) 1005
   石廊   日立因島   昭和18( 〃  )   223
   興津   新潟鉄工   昭和18( 〃  )   228

基準排水量8,800㌧    満載排水量10,650㌧  全長140m  17m  吃水6m
主機 : マンディーゼル2基    10,400馬力     速力22ノット 
航続距離 15ノットで7,000浬   
乗員
192
兵装 65口径10.5連装砲搭×2基  戊式40mm連装機関砲×4
艦載艇  9m内燃艇×1隻  9mカッター×2隻  13m特貨艇 ×2

軽質油補給艦?なんだこれ?という疑問からこの艦に興味を持ちました。あることは知っていましたが、高速タンカーだと思っていたのです。実史では基準排水量7950㌧ほどの中型補給艦であり、役割は機動部隊に随伴しつつ航空燃料2,500㌧、航空機用エンジンオイル330㌧、真水150㌧、弾薬類350t、魚雷43本など総量4,000㌧ほどの物資を空母に補給する艦だということです。空母2隻分の補給をまかなうとのこと。こういった役割を専門にした船が日本海軍にあったことに驚きました。そういえばタンカーなのに普通の輸送船とは形も違うし、軍艦みたいだけど軍艦と呼ぶにはなんか違和感がありました。足摺が1943年1月、塩谷(岬の付け根に美空ひばりの記念碑があって碑に近づくと塩谷岬の唄が流れるようになっていました。)が同年11月9日竣工ですから出来たのが遅すぎたのです。両艦とも三菱長崎が建造しました。軍艦と商船の中間みたいな船であることもなんとなく納得できます。艦名は岬に由来しています。なお船体は中央部で10mほど長さを増しています。

 
本稿においては昭和18年末には改翔鶴級空母9隻(大鳳、祥鳳、瑞鳳、龍鳳、駿河、尾張、若狭、土佐、出雲)と伊吹級空母8隻(天城、笠置、葛城、阿蘇、生駒、伊吹、筑波、妙義、)更に赤城、加賀、飛龍、翔鶴、瑞鶴(蒼龍はミッドウェーにて沈没)、隼鷹、飛鷹など総計23隻の正規空母が就役していました。更に25隻ほどの護衛空母も任務についています。これら約50隻の空母に対応して表記のように10隻ほど建造し、一回り大型の艦として就役しました。しかも速力は22ノットに増速しています。無論これでも足りないので貨物船タイプの補給艦もこの任務にあたっています。これらの補給体制の充実により、機動部隊は洋上補給作業を習得しました。これらを実施したためその行動範囲はかなり広がり、渡洋攻撃が可能になりました。この時点から日本近海で米戦艦を待ち受けるという旧来の漸減作戦は其の信奉者とともに完全に駆逐され、米のシーレーンを破壊し、日本に近寄れなくする作戦に切り替えたのです。本級は海軍の直属ですが、昭和17年暮れには海上補給本部が設置され、タンカーや輸送艦は其の部所の所轄となり運用されるようになりました。無論、海上護衛本部との連絡は密であり、人員も兵学校の成績優秀者が所属しています。ハンモックナンバー上位者が第一線の艦隊に任官する時代は昭和16年で終了したのです。これは米海軍も同じでこれらの任務に就いた人達が戦後の社会基盤の構築に活躍しました。
 また、海軍及び陸軍はインドネシア・パレンバンに航空用ガソリンの製油施設を建設し、足摺級はここを拠点にソロモン及びハワイ東方海域まで進出し機動部隊の航空燃料を補給しました。この時護衛にあたったのは海上護衛本部の中でも最精鋭の海防艦5部隊25隻(海防艦は発見潜水艦をあくまで追撃する必要から1隻を担当艦として保持している。)がこれにあたり、昭和18年度だけで敵潜水艦9隻を撃沈、8隻を大破または中破という戦果をあげています。
 
昭和18年10月には三浦、野島、室戸、塩谷に対潜ジャイロ・カ号改を運用するため発着甲板が設置され、1944年(昭和19年)にはカ号改を搭載し、さらに強力な対潜作戦が実施されました。
 海上護衛本部は17年(1942)より護衛空母の運用も開始し、東南アジア貿易の護衛に当たっていますが陸軍の対潜哨戒機東海もいち早く採用しております。無論、カタパルト発進ですが何せ幅が16mもあるので艦橋に特殊な機構を採用した護衛空母が就役しました。この艦については別項で案内いたします。

 



本艦は輸送艦“足摺”型10隻の6番艦です。播磨造船所で昭和17年8月11日に竣工しました。後述するカ号対潜哨戒機性能試験艦として図のように後部に簡易な飛行甲板と昇降機を装備しました。無論甲板の下は格納庫になっており、カ号を6機、2個戦隊搭載しています。7番艦の野島も新潟鉄工で同様の設備を設けて竣工しましたが、これは陸海軍期待の現れでいかなることがあっても実用化するという決意の現れでした。両艦は完成後直ちに海上護衛総隊に所属し、18年(1943)2月より輸送船団の護衛に付き、カ号哨戒機の実戦試験に従事しました。実戦ではほぼ満足できる結果を残し、カ号の採用と護衛空母への搭載が決定しました。護衛空母には6機から12機のカ号が配備され対潜攻撃に当たることになりました。搭載する60kg爆雷は炸薬強化型であり、一撃で敵潜水艦を撃沈できる破壊力を秘め、更に形を爆弾型にして弾道を安定させたため極めて高い命中率を得ることができました。本稿では他の護衛艦艇にも15cm対潜墳進弾や水中探信儀、音響測定器を装備し、その対潜能力は世界のどの国にも負けないほど充実しておりました。カ号対潜哨戒機の積む磁気観測器で長時間敵潜水艦探索が可能になりカバーエリアは幅20km長さ100kmに拡大しました。台湾とフィリピンの間が400kmなので一定のエアーカバーが完成したことになります。台湾と沖縄の間は基地航空隊でのエリアカバーが可能ですのでこれで南方からの輸送シーレーンが完成しました。陸海軍が新造艦を改造した目的は実はこの為だったのです。その結果、昭和18年から20年までの輸送船損失率は開戦時と変わらず50~70万トンと開戦時より減少しています。

番外:カ号哨戒機

カ号の“カ”は回転翼の“カ”です。当初はオートジャイロから“オ号”とも言いました。ノモンハン事変(昭和14年・1939)当時、陸軍は砲兵隊の着弾観測に気球を使っていましたがソ連の戦闘機に撃ち落されました。これの解決策の一つとして、昭和15年に米(ケレット社製)より民儒を装って輸入していた機体を昭和18年に茅場製作所にコピーせよと60機ほど製作させたものがカ号観測機(エンジンはドイツ・アルグス社製・神戸製鋼がライセンス生産)になりました。

図を参照して頂くと判りますが胴体は飛行機、翼の替わりに回転翼を付けた何とも変な飛行機です。欧米や米ではレジャー用に使われ始めたようです。18年より米潜水艦の船団攻撃が本格化し、輸送船の損害が急増したため爆雷を装備して対潜作戦に使うという目的でした。この時点で陸軍の発想は素晴らしいものです。一体陸軍は関東軍を別にすればすこぶる発想力豊かな軍隊だったと思えるようになりました。神州丸や3式指揮連絡機、対潜哨戒機“東海”の実用化などがそれを裏付けます。ただ、ここでも時期が遅すぎたのです。

 本稿では第一刊を始める以前からこの“カ号哨戒機”を対潜作戦に起用と考えていました。それは今日の対潜用ヘリの活躍をみれば明らかなことで、例によって多少遡ります。昭和18年から実戦配備されることにしました。ただし、このままでは装備が貧弱なので若干大型化したⅡ型、完全に対潜型に特化し、改良したⅢ型に発展させました。同時に哨戒機“東海”に搭載した磁気観測器も小型化に成功し、エンジンはドイツ製液冷型を止め、3式指揮連絡機と同じ空冷の日立星型9気筒310馬力に強化しました。

要目は以下になります。

カ号Ⅰ型
全長6.95m、全高3.1m自重750kg神鋼アルグスAs空冷8気筒250馬力、最大速力165km、航続距離360km、60kg爆雷×1

カ号Ⅱ型
全長6.95m 全幅10.6m(ローター含む・ローターは折りたたみ可能)高さ3.1m 自重800kg 発動機日立ハ42型310馬力 速度175km 航続距離450km 60kg対潜爆雷×1

カ号Ⅲ型
全長7.5m 全幅11m(ローター折りたたみ可能) 高さ3.3m 自重1,150kg 発動機日立ハ42型改 380馬力 速度185kg 航続距離450kg 兵装 60kg対潜爆雷×1 15cm対潜噴進弾×8