72.海防艦の戦後

 この回では500隻も建造された海防艦(=後の護衛艦)が戦後どういう道を歩んだかを報告します。各艦基本的には商船規格で建造された為、改造が比較的容易でそれぞれ用途に応じた改装をされて戦後の復興に向けて新たな任務に就くことになった。1号型から5号型までの5タイプはそれぞれ建造所に集合し建造時と同じように大量に改造された。期間は早いもので80日、一番長いもので120日位で改造を終えた。最終艦は昭和25年までかかったが4年間で終えることができた。以下各艦型ごとに変遷をたどって見ることにしよう。

〇1号海防艦

【要目】
  基準排水量980㌧  満載排水量1,140㌧
  全長84.23ⅿ× 幅9.8ⅿ×吃水3.1ⅿ  主機22号10型ディーゼル×2基
  2軸  4,600馬力  速力18㌩  16㌩で8,000浬   乗員160名
【兵装】
  65口径10.5㎝連装高角砲 × 1基 戊式40㎜機関砲 × 3基
  25㎜3連装機銃 × 2基  15㎝9連装対潜墳進砲 × 2基
  爆雷投射機Y砲 × 1基  爆雷投射機 ×4基(機雷130発)
  爆雷投下軌条 ×  2基  水中聴音機・水中探信儀各1基


【要目】
  基準排水量910㌧   満載排水量1,080㌧ 
  全長84.23ⅿ × 幅9.8ⅿ × 吃水3ⅿ(バラスト搭載)
  その他海防艦時代と同じ。 25㎜単装機銃×1基  掃海具一式

全艦、日本鋼管で建造された本級は戦時急造ということもあって客船規格で建造されており、改造は軍艦仕様の艦に比べて容易であった。昭和21年11月護衛艦隊が解隊されると直ぐ建造所である日本鋼管にて改造に着手、海軍が独自に敷設した国内沿岸(55,000個)及びトラック・ニューギニア等の海外基地沿岸、航路(計65,000個)など海外にまで足を延ばし機雷の掃討にあたった。昭和21年8月には最初の改造艦が就役した。当初から感応機雷への対応は優れており磁気機雷と音響機雷を同時に掃海できる機能を保持していた。磁気機雷については戦後すぐに40隻の木造掃海艇を調達し、これとともに掃海を実施した。掃海が終わったのは昭和37年(1966)までの17年間に及ぶ任務であった。

〇2号海防艦

【要目】
  基準排水量980㌧      満載排水量1,140㌧
  長さ84.23ⅿ × 幅9.8ⅿ ×3.1ⅿ  その他は1号型海防艦と同じ
【兵装】
  65口径10.5㎝連装高角砲 × 1基 65口径8㎝連装高角砲 × 1基
  戊式40㎜機関砲 ×5基   その他1号型と同じ  建造所 三井玉野


【要目】
  基準排水量910㌧  満載排水量1,090㌧
  吃水のみ3ⅿ(バラスト搭載)。 はえ縄漁具一式
 
これだけの重武装艦を遠洋航海の大型漁船にしてしまう、この発想を我ながら異常だと思った。このクラスも同型船は8隻戦没している。戦後直ぐの昭和21年6月から改造が始まり、9月からはサンマ漁に参加し、11月には遠航でマグロ、かつお漁に参加した。戦中太平洋に前方展開した戦前からの鰹鮪漁船は米軍の展開でかなりの船が撃沈された。食糧確保のためにまず漁船が必要であり多少大型ではあったが海防艦をその任に充てることとした。改造にあたったのは建造所である三井玉野造船。漁船としては船型が大型であったため世界中どこにでも航海が可能であり、船内に大型の冷凍設備を持ったためかなりの漁獲が見込まれた。潜水艦発見用のソナーはマグロ・かつお漁に転用され大活躍をした。これが当時の貴重なたんぱく源であり、国民を救う食糧であった。この活躍は昭和35年(1965)まで続き、貸与していた水産会社が自社の船を建造するまで続いた。

〇3号海防艦

【要目】
  基準排水量1,120㌧   満載排水量1,230㌧
  全長86.6ⅿ× 幅9.8ⅿ × 吃水3.4ⅿ  主機22号20型ディーゼル2基
  7,000馬力  速力21㌩  16㌩で8,000浬  乗員160名 日立泉州工場
【兵装】
  5吋連装高角砲 × 1基   65口径8㎝連粗衣高角砲 × 1基
  戊式40㎜連装機関砲 ×5基  15㎝9連装対潜墳進砲 × 3基
  爆雷投射機Y砲 ×1基  爆雷投射機 ×3基 水中聴音機・探信儀各1基


【要目】
  基準排水量 980㌧  満載排水量1,150㌧
  その他海防艦時代と同じ(バラストにて調整)


【要目】
  基準排水量 980㌧  満載排水量1,150㌧
  その他海防艦時代と同じ(バラストにて調整)

本級は護衛艦隊が解隊された後、コーストガードに相当する新組織、海上保安庁及び気象庁の一部を構成する船として移管された。戦時喪失艦がなかった為保安庁に85隻、気象庁に5隻、その他の省庁に10隻が配分された。組織の主幹は警察庁があたることになり海軍とは別組織となって海上警察の色彩を濃くした。図6は気象庁の定点観測船として主に台風観測業務に就く船である。図7は一般の巡視船を示している。1,000㌧以上の船舶85隻の船団が昭和23年から海上警備につくことになった。

〇4号海防艦


【要目】
  基準排水量1,120㌧  満載排水量1,230㌧
  全長86.6ⅿ × 幅9.8ⅿ × 吃水3.4ⅿ 主機22号20型ディーゼル2基 7,000馬力  速力21㌩   16㌩で8,000浬  乗員170名 横浜船渠建造
【兵装】
  5吋連装高角砲 × 1基   戊式40㎜機関砲 × 5基
  15㎝9連装対潜墳進砲 ×  3基  12.7㎜単装機関銃 × 8基
  爆雷投射機Y砲 × 1基  爆雷投射機 ×  3基

4号型海防艦は基本的には巡視船型として改造された。ただ、配備先が海保以外の官公庁に40隻さらに各種調査船20隻、巡視船20隻、そして海軍特務艦20隻となった。海軍では本船を調査船・試験船として運用し、西太平洋水域での海洋水温調査、海図作成などの業務にあてた。官公庁配属の船は調査船や取締船などに使われ更に改造され漁業調査船として南氷洋に出かけるものもあった。
海上保安庁は巡視船として使用しており3号型と合わせ100隻以上の大船団を運用することになった。

〇5号海防艦

【要目】
  基準排水量 990㌧   満載排水量1,150㌧
  全長84.23ⅿ × 幅9.8ⅿ ×3.1ⅿ  主機22号10型ディーゼル × 2基
  4,600馬力  20㌩  16㌩で8,000浬  乗員160名   石川島造船建造
【兵装】
  65口径10.5㎝連装高角砲 × 1基  65口径8㎝連装高角砲 × 1基
  戊式40㎜連装機関砲 × 5基  15㎝対潜墳進砲  × 2基
  爆雷投射機Y砲1基    爆雷投射機 ×4基(機雷130発)
  水中聴音機・探信儀各1基


【要目】
  基準排水量950㌧    満載排水量1,100㌧
  全長84.23ⅿ  × 幅9.8 × 吃水3.3ⅿ  速力20㌩ 航海速力16㌩ 乗員60名  先客160名

戦後、極東貿易は大いににぎわった。日本を中心とする極東地域は戦後空前の好景気を迎えた。と同時に人々の行きかいも盛んになり、近隣国への客船の需要が高まった。海軍はかねてより戦後の小型客船重要が増すことを念頭に5号型海防艦を客船規格で建造しており、戦沈艦8隻を除いた92隻を昭和21年より改造にかかり、23年にはほぼすべてを改造し終わった。これら92隻は極東アジアの貿易振興と戦後復興のために各国に無償供与することとし、インドネシア10隻、マレーシア7隻、タイ15隻、台湾15隻、韓国10隻、ベトナム5隻、フィリピン13隻、シンガポール3隻、南太平洋諸国12隻(パラオ、パプアニュ―ギニア、ミクロネシア連邦、マーシャル、ソロモン、ツバル、ナウル、フィジー、トンガ、バヌアツ、サモア、マリアナ連邦各1隻)という内訳で引き渡された。これと同時に各国の船員事情に負担がないように練習船として2隻をパラオに派遣しここで船員(船長・上級船員)の養成を昭和21年より開始した。フィリピンに13隻も配属されたのは終戦の条件として米国の統治から離れることが条件の一つになっていたからであり、日本がかの国に行う援助は他のアジア諸国と同程度になった。

 以上が戦後の海防艦(昭和19年より護衛艦と改称)の活躍の場の実態であるが護衛艦をいち早く、海軍から除き各省庁に分けたことはのちのち外交関係や内政の改革においても良い結果をもたらすものとなった。空軍の創設、陸戦隊の分離、海上保安庁の分離創設などの一連の動きで軍部の権力を分散し、かつての陸軍のような権力の集中を避けることができた。