71.戦後の軽巡“筑後”級の変遷

図1 戦後の軽巡筑後級の図


 

 1.筑後(ちくご) 室蘭工廠  
 2.三隅Ⅱ(みくま) 室蘭工廠  
 3.日高(ひだか) 室蘭工廠  
 4.小矢部(おやべ) 鶴見造船  
 5.久慈(くじ) 室蘭工廠 ミサイル巡洋艦に改造
 6.梓(あずさ) 鶴見造船 ミサイル巡洋艦に改造

改Ⅱ型
 7.大野(おおの) 鶴見造船  
 8.五ヶ瀬(ごかせ) 室蘭工廠 フィリピン沖にて被爆沈没
 9.物部(ものべ) 舞鶴工廠  
10.須賀(すが) 鶴見造船  
11.神通(じんつう) 室蘭工廠 2隻目の練習巡洋艦となる
12.番匠(ばんしょう) 鶴見造船 マリアナにて被雷沈没
13.吉井(よしい) 室蘭工廠 沖縄沖にて被雷沈没
14.淀(よど) 鶴見造船 ミサイル巡洋艦に改造
15.狩野(かの) 室蘭工廠  

改Ⅲ型
16.天竜Ⅱ(てんりゅう) 佐世保 ミサイル巡洋艦に改造
17.由良Ⅱ(ゆら) 鶴見造船  
18.川内Ⅱ(せんだい) 室蘭工廠 沖縄沖にて被雷沈没
19.加古Ⅱ(かこ) 佐世保 ミサイル巡洋艦に改造
20.夕張Ⅱ(ゆうばり) 室蘭工廠 練習巡洋艦に改造

※この他30隻が建造予定であったが終戦により建造中止。

【要目】
  基準排水量11,8500㌧    満載排水量14,000㌧
  全長 180ⅿ ×  幅20ⅿ × 吃水7.5ⅿ
  機関:艦本式蒸気タービン4基25,000馬力 100,000馬力  4軸   速力33㌩
  航続距離 15㌩で11,000浬  乗員1,030名
【装備】
  15.5㎝3連装 ×4基  65口径10.5㎝高角砲 ×6基 40㎜連装機関砲 × 8基
  連絡用ヘリコプター × 1~2機
  以下戦後撤去
  26㎜3連装機関砲 ×  6基   単装砲  ×  20基    搭載機 2基

 本級は戦時標準軽巡洋艦として大淀級の後50隻が計画され昭和22年までに全艦完成予定でいた。しかし、昭和19年末には終戦の見込みも付いたので20年春以降は起工を止め、資材は生活用品や極東貿易に必要な物品に回され大事な輸出品になった。本級20隻の特徴は旧海軍の巡洋艦と違って太平洋を渡る必要性から艦内生活を改善するために一人当たりの生活面積を十分とるといった居住性の改善であった。そのため船体は従来艦より1層増やし、大和で完成したエアコンも設置され艦上生活は快適になり、用兵上でも使いやすい艦として評価された。昭和19年に生起したマリアナ海戦、レイテ沖海戦には全艦参加して活躍したが番匠、吉井、五ヶ瀬の3隻が沈没した。戦後は各艦3つの艦隊に分かれて配備されたが久慈、梓、淀、天龍、夕張、加古の6隻は予備役になっていた艦でこれらの艦が近代化改造され不足する対空ミサイル装備の巡洋艦となった。また夕張は戦後初の練習巡洋艦となった。

図2 ミサイル巡洋艦久慈、梓、淀、天龍、加古の図




【要目】
  基準排水量11,800㌧    満載排水量 14,600㌧
  全長183ⅿ  ×   全幅 20ⅿ  ×  吃水 7.4m
  艦本式蒸気タービン25,000 × 4基 100,000馬力 4軸   速力33㌩
【兵装】
  対空ミサイル翔炎53型単装発射機 ×  5基 (舷側部各18発、後部各36発) 
  6連装対艦“火龍Ⅱ”ミサイル(18発)× 1基  15.5㎝3連装砲 × 1基  5吋単装速射砲× 2基

 戦後予備役になった12隻中の5隻である。浜名湖に久慈と梓がその他の艦は八郎潟にてモスポール保存中であったが、ソ連の飽和攻撃に対処するため改造されることになり現役復帰した。昭和33年に改造計画が承認され、昭和36(1961)年には工事が完成し再就役することとなった。駆逐艦の改造で無理のあったスペースの問題も巡洋艦では無理なく収めることができ指揮艦として各艦隊の中枢を務めることもできた。配備は北方に久慈、梓の2隻を、太平洋と東シナ海に各1隻、それに予備艦を1隻確保していた。これらの3隻は淀、天龍、加古が交替でこれにあたった。

図3 練習巡洋艦“夕張”の図。神通もほぼ同じ。




【要目】
  基準排水量11,000㌧    満載排水量 13,800㌧
  全長183ⅿ  ×   全幅 20ⅿ  ×  吃水 7.4m
  艦本式蒸気タービン25,000 × 4基 100,000馬力 4軸   速力33㌩
【兵装】
  対空ミサイル翔炎56型単装発射機×1基(36発) 
  8連装対潜“蒼雷Ⅱ”ミサイル=アスロック(18発) × 1基 
  15.5㎝3連装砲 ×1基  5吋単装速射砲×3基  短魚雷発射管 × 4基  25mm単装機関砲 ×  3基

 戦前は練習巡洋艦香取、鹿島、香椎の3隻をそろえ更に日露戦争時代の装甲巡洋艦を加えて士官を大量に育成した海軍であったが、戦後は筑後型軽巡と一部の重巡洋艦が年度ごとにその任に当たっていた。しかし、その都度常備任務から外れることになり業務が滞ることが頻発した。また、艦載砲に代わってミサイルが主装備となると職責をこなせない士官が誕生することになり問題となった。このため新練習艦にはミサイル搭載が求められる様になった。これがミサイル練習巡洋艦“夕張”誕生の背景である。工事は昭和33年(1958)から急ピッチで開始され昭和35(1960)年2月に何とか完成し、新型ミサイル駆逐艦が就役する1年前に士官250名の育成を成し遂げ何とか間に合った。この後練習艦の要望は更に強まり“神通”も昭和38年に改造された。航海は横須賀→小笠原→サイパン→トラック→ラバウル→マニラ→シンガポール→バンコク→台北→沖縄→呉 という航海が一般的であったが、これにハワイ又は西海岸の都市が加わった。