69.戦後潜水艦建造秘話
潜水艦滿汐(みちしお)
基準排水量1,600㌧ 水中排水量2,200㌧
全長88.83ⅿ × 最大幅8.1m × 吃水5.5m
機関/軸数:三菱式ディーゼル機関×2基 推進電動機三菱式×2基 2軸
出力:3,500馬力(水上) / 5,200馬力(水中)
速力:15.5ノット(水上) / 20ノット(水中)
航続距離:10㌩で12,000浬 / 3㌩で45時間
兵装 53.3㎝魚雷発射管 × 6基(前部) 魚雷28本
安全潜航深度 200ⅿ 乗員85名
戦後の海軍は当時最新型であった水中高速潜水艦伊-200型と大型潜水艦伊-400の運用方法を再検討することから活動が始まった。潜水艦の運用方法が戦中に大きく変わり、偵察から輸送部隊への攻撃、あるいは敵地への事前上陸などに変化してきたのである。大戦中にあっても高速化については米海軍のそれを凌駕していたが問題はパッシブやアクティブなどの水中音響機器の貧弱さであった。このため米海軍のガピーⅠ~Ⅲのような本体の改造はしなかったが水中測的兵器の開発には心血を注ぐことになった。このため海軍は民生の技術を利用活用することとし各種ソナーの開発に取り掛かった。伊-400の7変遷については67項で述べた。
伊-200/伊-400潜水艦
伊-200で大改装をされた艦はなく190隻近い伊-200級は退役又は予備役編入が相次いだが、潜水艦の使用方法の変化により新型の潜水艦の必要性は日を追って現実となってきた。伊-200型は改造するにも船体が小型過ぎたためである。“滿汐”はそれに対する回答である。伊-200型で犠牲となった居住性と音響センサーつまり相手の音を聞くパッシブソナー(探知)と自ら音を発信してその反射音を聞き取るアクティブソナー(測的)の開発である。また、目標の距離まで分かるために曳航式の距離航アレイ、ソナーシステムの開発も急務であった。水上時の索敵はレーダー及びESM(逆信に近い・レーダー波を出している目標を見つける)で行うがESMの性能の良し悪しが鍵になる。開発は急務であった。これらの研究成果を結実した潜水艦が昭和29年計画の“滿汐”である。昭和31年(1956)進水、昭和32年(1957)5月竣工。
進水後の各種試験では期待された性能を発揮し、海軍の戦後第一歩を歩むこととなった。ソナーについてはまだ小型化が出来ず艦首部が大型化しているが戦後12年目の海軍の回答であった。
潜水艦黒潮(くろしお)
基準排水量1,650㌧ 水中排水量2,250㌧
全長88.4ⅿ × 最大幅8.1m × 吃水5.5m
機関/軸数:三井式ディーゼル機関×2基 推進電動機三菱式×2基 2軸
出力:3,500馬力(水上) / 5,500馬力(水中)
速力:15.5ノット(水上) / 22ノット(水中)
航続距離:10㌩で12,000浬 / 3㌩で45時間
兵装 53.3㎝魚雷発射管 × 6基(前部) 魚雷28本
安全潜航深度 280ⅿ 乗員85名
昭和32年(1957)起工 昭和33年4月進水 昭和34年(1959)1月竣工
“滿汐”の建造は見切り発車の部分が多く、性能は何とか満足したものの後から改良点が見つけられた。“黒潮”は“滿汐”竣工後に建造が始まったため、戦後の潜水艦として考えを改めてから建造にかかった部分が多い。船体は若干肥満化したものの基本的にはほぼ同じ線図で建造されている。ただパッシブソナーが新型化、大型化されているため艦首のふくらみがより大きい。2隻は新型であるが対潜駆逐艦の標的をも務めたため、非常に忙しい現役生活を強いられた。そのため艦長が18か月で交代する程であった。就役後の成績は黒潮も従来型潜水艦としては設計,企図したものとなり、海軍ではこの艦の同型艦の建造を望む声が大きくなった。しかし、艦艇設計本部(艦政本部より改名改組)は潜水艦の革命を考え実践する方向であった。
米潜水艦“タング級”
排水量 1,821㌧(水上) / 2,260㌧(水中)
全長82.0ⅿ × 全幅8.3ⅿ × 吃水5.5ⅿ
機関:GM式16気筒2サイクルディーゼル3基 電動機2基 2軸
出力:3,400馬力(水上)/ 4,700馬力(水中)
速力:15.5㌩(水上) / 18.3㌩ (水中)
航続距離:10㌩で11,500浬 / 3㌩で43時間
兵装 53.3㎝発射管8門(艦首6門・完備2門) 魚雷26本
安全潜航深度 213ⅿ 乗員83名
タング級は滿汐・黒潮などとほぼ同時期に1951年(昭和26)1月から翌年にかけて竣工した米海軍の潜水艦である。本艦はドイツの水中高速潜水艦を米海軍が検証し、水中機動性と艦内容積の確保の両立、潜航深度の増大、主機の軽量化、強力なモーターの採用、高容量・高放電力の新型電池、良好な水測兵装の搭載など最新型の潜水艦として建造された。性能は滿汐と黒潮に比べてやや落ちるが、これは5年ほどの時間の差や各種ソナーの差であるが水中速度は黒潮の方が若干早い。水中高速性については伊-200の建造で既に経験しており一日の長があった。参考に同時期の米潜水艦としてあげてみた。
潜水艦大潮(おおしお)
大潮(おおしお)三菱神戸 昭和34年(1959)1月15日竣工
磯潮(いそしお)神戸川崎 昭和34年(1959)2月19日竣工
春潮(はるしお)浦賀船渠 昭和34年(1959)3月10日竣工
巻潮(まきしお)三井玉野 昭和35年(1960)2月08日竣工
高潮(たかしお)横浜船渠 昭和35年(1960)2月10日竣工
基準排水量3,100㌧ 水中排水量3,550㌧
全長75.58m × 最大幅9.5m × 吃水7.7m
機関/軸数:三井ディーゼル機関× 1基 推進電動機三菱 × 1基
出力:3,800馬力(水上) / 5,500馬力(水中)
速力:15ノット(水上) / 22ノット(水中)
航続距離:10㌩で14,000浬 / 3㌩で100時間
兵装 53.3㎝魚雷発射管 × 6基(前部) 魚雷24本
安全潜航深度 300ⅿ 乗員82名
艦艇設計部が出した答えの一つが涙滴型船体の採用であった。米海軍が実験用潜水艦アルバコアを昭和28年(1953)建造し、将来潜水艦として涙敵型船体の潜水艦を研究していることは日本海軍も情報を得ており、海軍もこの船体形状の研究は続けていた。米海軍はアルバコア竣工の6年後、昭和34年(1959)に通常動力潜水艦バーベル級と原子力を動力とした潜水艦スキップジャック級を就役させ、潜水艦に2つの大革命を起こし以後の潜水艦の船体はすべて涙滴型が採用されることになった。これは水中速力30㌩の時代に突入することを暗示するばかりか、潜水艦が空母とともに海軍の最重要兵器となることを意味した。もはや駆逐艦が追いかけて爆雷で潜水艦を撃沈する時代ではなくなったのである。米海軍はこの時期から潜水艦を第一の兵器としての拡大、充実を目ざして行く。
日本海軍も“大潮”級潜水艦を昭和34年(1959)に竣工し、呉と横須賀に配備した。内殻中央部が3層となり魚雷と電池が充分に搭載され、通常動力型潜水艦としては良好な性能を発揮し、水中速力は最高23㌩を記録した。また、本艦より曳航アレイソナーシステム(TASS・後日装備)も採用され索敵能力はより強力になった。
原子力潜水艦“親潮”級
親潮(おやしお)神戸川崎 昭和35年(1960)4月18日
渦潮(うずしお)三菱神戸 昭和35年(1960)5月08日
朝潮(あさしお)浦賀船渠 昭和36年(1961)2月20日
夏潮(なつしお)三井玉野 昭和37年(1961)1月28日
春潮(はるしお)横浜船渠 昭和37年(1961)2月03日
基準排水量3,400㌧ 水中排水量3,950㌧
全長80.4m × 最大幅9.5m × 吃水7.7m
機関/軸数:東芝TGK-2加圧水型原子炉×1基
三菱ギアードタービン × 2基 1軸
出力:15,000馬力
速力:15ノット(水上) / 29ノット(水中)最高33㌩
航続距離:10㌩で14,000浬 / 3㌩で100時間
兵装 53.3㎝魚雷発射管 × 6基(前部) 魚雷24本
安全潜航深度 300ⅿ 乗員82名
日本海軍最初の原子力艦である。原子力については昭和17年から石油のいらない燃料として研究が開始された。17年掛かってやっと実用化ができたが、陸海軍ともこれを兵器として開発することは考えていなかった。しかし、開発の途中で原子爆弾として兵器になることが分かり、戦後1950年に爆弾が完成した。原子力を燃料として使ったのは本艦が初めてで涙滴型船体とともに新時代を代表する艦となった。また、海軍は艦政本部を解体し、艦艇部、設計部、、造機部、航空部など分かりやすい表記に改めると同時に旧来の組織の硬直化を打破、解体した。本艦の安全潜航深度が深くなったのはNS60調質高張力鋼が採用された為である。また、索敵能力の向上、マスカー装置の採用による防音対策の向上、居住性の向上、対艦ミサイルの水中発射装置(後日装備)の採用なども考慮されている。