62.終戦までの経緯
昭和25年を迎えた。あの大戦が終わって早くも5年の月日が経った。しかし、お隣の朝鮮半島は連合軍とソ連をはじめとする共産主義勢力の対立が顕著となり次第に騒がしくなってきた。せっかく日米大戦が終了し太平洋に平和が訪れたのにソ連・中国の共産党は、朝鮮労働党をせっつき東アジアに属国化の火を燈そうとしている。このままでは朝鮮の南北で戦争が始まるだろう。
1948年8.15李承晩が大韓民国成立を宣言すると、北朝鮮の金日成も同年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言し、北緯38度線を挟んで対峙することになった。事変は次第にエスカレートし、すでに武力行使の段階に突入、共産主義勢力から物的・人的援助受けている北朝鮮が優勢で、1950年12月には韓国の首都ソウルが占領される事態にまで発展した。
太平洋の覇権をかけた日本と米国はどうなったのだろう。大戦は昭和20年(1945)8月15日に終わった。昭和18年末(1943)から米軍はギルバート諸島タラワへの上陸や1月末のマーシャル諸島グェゼリン島の占領を試みた。アメリカの反撃が始まったのだ。海軍はトラックから第一・第二航艦に出撃を命じ、かねてより一部の参謀から具申されていた米輸送船団に対する航空攻撃を敢行した。この攻撃は成功し、護衛にあたっていたすべての軽空母4隻と駆逐艦7隻を撃沈破した。
加えて水中高速潜水艦が相互に連絡を取り合って待ち伏せ状態を維持し、船団の側面から魚雷攻撃をするという狼群攻撃で、輸送船50隻中38隻を撃沈するという大戦果をあげることができた。これは日本海軍がドイツ海軍の戦法をまねたもので、結果として大船団を攻撃する手段として大いに有効であることが証明された。この戦法は以後の米上陸部隊に対して継続的に実施され700隻強の米輸送艦船を撃沈することになった。
サイパン南方沖海戦(昭和19年2月22~23日)
上陸作戦に失敗した米海軍(第38任務部隊)は昭和19年(1944)2月18~19日、空母による奇襲攻撃をトラック諸島に実施した。停泊していた日本の輸送船団は波状攻撃を受け31隻が犠牲となった。さらに留守部隊として残っていた日本海軍艦艇も軽巡那珂、香取をはじめ駆逐艦7隻が撃沈された。この時、トラック基地より無線が入り米打撃部隊には新鋭戦艦アイオア、ニュージャージー・サウスダコタ・アラバマ・インディアナ・ノースカロライナ・ワシントンの7隻が艦砲射撃を行い、残存艦艇と基地施設の攻撃に加わっているとの連絡が入った。トラックを空けてサイパンに向かっていた第一艦隊旗艦大和以下、武蔵、信濃、紀伊の4隻は急遽反転、サイパン南海域で日米の新鋭戦艦同士の海戦が始まった。当初、戦闘は遠距離から探信儀で米艦隊を捕捉した第一艦隊のアウトレンジ戦法が功を奏し、4射目で旗艦アイオアに命中弾を撃ち込み、アイオアを大和が、ニュージャージーを武蔵が、マサチューセッツを信濃がそれぞれ撃沈し、ノースカロライナを紀伊が大破させた。この時、米艦隊上空の迎撃機を駆逐したのは別働部隊から発艦した新型ジェット戦闘機“震電改”であった。震電改90機は讃岐級軽空母常盤、阿波、志摩に30機ずつ分散配置されこれが初陣であった。
“震電隊”は昭和18年3月より生産が始まり訓練も充分積んだ特殊部隊であったがF6Fヘルキャットの迎撃をものともせずに攻撃をかけ第1派(40機)で67機を撃墜した。圧倒的な速度の差と日本海軍が初めて実施する一撃離脱戦法は米戦闘機に驚きと戸惑いを与え、組織的な反撃の機会を与えなかった。第2派(50機)の攻撃では150機の迎撃機を相手に90機以上を撃墜破した。これは、米58任務部隊の戦闘機隊の31%にあたり、以後の海戦で米海軍は新人パイロットが搭乗員の多数を占めることになり、技量の低下と経験不足いうハンデを背負うことになる。なおこの海戦は後にサイパン南方沖海戦と命名された。
米58任務部隊に所属する空母の内、ベニントン及びインデペンデンス級各艦はベスレヘムクインシーやニューポートニューズ造船所以外の造船所で建造されたもので、日本海軍が昭和18年1月に実施したイー400型戦略潜水艦の誘導弾攻撃を免れた諸艦であった。この攻撃でヨークタウンⅡ・ホーネットⅡ・イントレピッド・レキシントンⅡ・バンカーヒル・ワスプⅡなどかなりの空母に損害を与えたのだが、またたくまに15隻以上の空母を竣工させてしまう米国の工業力は脅威そのものであった。
昭和19年5月28~29日、日本海軍は戦艦信濃、紀伊(18年1,3月竣工)の2隻で編成した第二戦隊により渾(こん)作戦を実施、第二次ビアク輸送作戦において、重巡オーストリア、軽巡ボイシー、フェニックスその他駆逐艦8隻を撃沈するという戦果を挙げた。同時に潜水艦部隊(24隻)を展開し米軍のビアク上陸阻止に成功した。このためスプルーアンス中将の第58任務部隊はマリアナ方面への攻撃に作戦を一本化することになり、日本海軍はこれを迎え撃つこととなった。
上図はサイパン南方沖海戦における第一艦隊の布陣です。中央に旗艦大和を始め、武蔵、信濃、紀伊の3艦が続いています。大和型は電探射撃が可能なほど電信機を装備しており、装備位置も各々違っておりますが“紀伊”のそれが最新のものでした。海戦の時はこの後に重巡雲仙と安曇が続きました。駆逐艦は軽巡筑後の後に夕雲型駆逐艦群、軽巡三隈の後に月級の各艦が続き魚雷攻撃の機会を狙っています。艦隊補給艦波勝(はがち)は駆逐艦大波を伴って後続の別動隊と合流していました。軽巡以上の艦艇は当時最新鋭のもので構成されています。これらより50浬後方に別動隊の空母群が続航しておりました。
別働隊は軽空母常盤(ときわ)志摩(しま)阿波(あわ)の3隻からなっており、これを重巡白馬(はくば)、赤石(あかいし)及び夕雲型駆逐艦大波、清波、玉波、涼波と潮型駆逐艦浮雲、黒雲、白雲、渓雲、艦隊補給艦大王が護衛している配置です。上図はこの艦隊の配置図です。軽空母には“震電改”が各艦30機搭載されました。“震電改”は昭和18年3月より月産50機のペースで生産され、その内海軍分は月20機で18年8月より実戦配備されたものです。
以下次号に続きます。