25.海防艦1号型(EX:改鵜来+御蔵型)


1号(下一桁1と6の付く番号)11号・26号など・・・
    ・・・日本鋼管       昭和172月~195月 (19421944) 100

2号(下一桁2と7の付く番号)
    
・・・ 三井玉野      昭和173月~198月 (19421944) 100

3号(下一桁38の付く番号)
    ・・・日立造船泉州工場 昭和174月~199月 (19421944) 100

4号(下一桁49の付く番号)
    ・・・横浜船渠       昭和176月~193月 (19421944) 100

5
号(下一桁5と0の付く番号) 例595
    ・・・石川島造船所    昭和177月~19年4月 (19421944) 100

                                           総計     500

基本要目 
 基準排水量980㌧ 全長84.2m 幅9.5m 吃水3.1m
 主機22号10型ディーゼル×2基 4,600馬力  速力21㌩ 16㌩で8,000浬

基本兵装
16型 (一六型)
 
65口径10.5㎝連装高角砲×1基    戊式40㎜連装機関砲×3基
 25㎜3連装機銃×2基   15㎝9連装対潜噴進砲×2基
 爆雷Y砲2基  爆雷投下軌条×2基 3式機雷(爆弾型130発)   
 改3式水中聴音機→15型水中聴音機×1組、4型水中探信義→16型水中探信儀(3000mにて誤差左右±15m)×2組  乗員160名

05型 (〇五型)
 
65口径10.5㎝連装高角砲×1基    戊式40㎜連装機関砲×5基
 対潜噴進砲以下同じ

 すこぶる重武装になりました。史実にある御蔵型と日振(ひぶり)を若干大型化したもので、本日図面にしたものは初期型の100隻です。この他には
    〇
艦首に89式5吋単装高射砲を装備したもの
    〇25㎜機銃を止めボートの位置に40㎜機関砲2基を乗せたもの
    〇
対潜墳進砲を前部に2基装備したもの
などがあります。図面は暫時書き上げます。海防艦群は現場の要求に対応したためある程度の改良要求を認めることになり、派生型が出たています。しかし、建造=隻数の確保を優先するため、船体、機関などは基本のままで変更することはしませんでした。現場から修正の要求が出ることはある程度予測できたことなのでゆとりを持って基本設計を行っていました。実史ではこれよりやや小型の御蔵型が標準ですが、将来的なことを考慮して長さ、幅とも若干大きめになっております。
 この艦は徹底した対潜護衛艦に特化され、レーダー類は4号対艦 5号対空 6号対高度探信義を装備しており、索敵能力は200㌔の範囲で可能です。また、最も重要な兵器である水中聴音機は15型、水中探信義も16型を各2組装備し、水中では距離3000m、左右±15mで適潜攻撃が可能になりました。さらに15㎝9連装対潜墳進弾の射程と探知距離が合致したため対潜攻撃域が“面”となっています。無論3式爆雷も従来と同じサイズで完成、搭載され、攻撃は一層過酷なものになりました。この刊では昭和19年に無線を使って我が物顔で組織的攻撃をする米潜と有効な攻撃兵器を備えそれに対峙する海防艦の戦いがフィリピンやバシー海峡で行われましたが惨劇は米潜水艦に起こりました。2個潜水戦隊(8隻)撃沈という戦果を挙げた部隊もあるくらいでした。電探の開発状況については後述します。

 我国が資源を南方諸国及び満州地区に頼る以上、海上輸送の安全・安定が国力の維持につながると考えた軍令部は、昭和17年2月に海上護衛総司令部を開設し、護衛専門部隊として松型駆逐艦210隻の内60隻と本級500隻の建造を開始した。総数500隻というのは当時の造船能力では達成不可能と思われたが、海軍から日本鋼管に出向していた遠山光一技術中佐とその部下たちの大胆な設計変更により、ブロック建造を大幅に取り入れ平均90日、後半では75日というスピード建造に挑戦した結果この快挙を得ることができた。同時にブロックによって簡易でしかし頑丈な船殻を持つことができ、これが上記の重武装を可能にする船体を作り上げた。この技術の完成は戦後の造船業に革命をもたらすことになった。 
 また、18年から19年にかけての輸送船の損失が平年並みで推移したのはこれらの護衛艦群が護衛に専念したお陰といえる。実史では船舶の損失は昭和17年100万㌧、18年180万㌧、19年378万トンとなっている。なんと1万トンの輸送船が19年には378隻も沈んだことになる。これでは戦えない! 
 艦名は当初都市名を予定していたが、都市名は輸送艦あるいは護衛駆逐艦なども使用予定に挙げていたので番号表示となったいきさつがある。また、番号名は造船所によって下一桁の数字を割り振り、欠番をなくしている。

 水中聴音機ソナーや水中探信義レーダーの装備により船団の護衛は第一次大戦時地中海で学んだ戦訓を十分生かしたものになった。単独あるいは数珠つなぎ型よりも密集型の方が効率的であることも実証され、海防艦は少ない護衛体制であるが効率的に対潜戦を戦い抜く一方40㎜連装機関砲の搭載によりB-25又はB-26による対空戦をも戦い抜くことが出来た。やはり40㎜機関砲とその射撃装置による効果は大きくこれらの攻撃機を寄せ付けることはなくなった。

 【電波探信儀】 
 日本の電波探信儀(レーダー)は昭和10年に開発を開始し、14年には航空機に対する反射波を受信するまでに開発が進み、16年には対空用の13型(最大35㎞)対水上用の21型・22型(最大100㎞)が完成しました。但し、個別区分はできません。これに対して米国では昭和16年(1941年)に 対空・水上とも最大距離280㎞で個別区分が可能という性能のレーダーが装備されています。例のもち焼き網が上下に2段組み合わされたような形のものです。高性能空洞マグネトロン(高周波発生装置)の開発が成功し、高性能のものが安定供給されるようになったからです。VT信管もこれの進化系で基本は同じです。

 マグネトロンは日本の方が開発は早かったのですが、調べますと艦政本部は途中で打ち切ったと聞いております。開発責任者が物を作るより理論に走り、探信儀そのものの製造には興味がなく、開発・装備には至らなかったということらしいのです。当時の人事がハンモックナンバーや階級優先で行われていたからで、今でも通じる日本人の一番治さなくてはいけない処でしょう。で、物語はこうなりました。

 

 電波探信義の開発は昭和8年に遡る。開発の鍵は高性能マグネトロンの開発であり9年には製造するという観点から責任者の配置転換が行われ、昭和12年には航空機の編隊程度が識別できる13型が完成し、昭和15年には対空13型改(最大距離50㎞)対水上22型改(最大探知距離40㎞)の物が完成した。
 その後日本電気で高性能マグネトロンが完成し、昭和17年(1943年)21、22型は4号対水上電波探信儀として正式採用され、最大240㎞の探知が可能となった。対空型の13号改は改良が加えられ5号対空電波探信儀となり最大280㎞の索敵を誇る。無論両者とも対象物の個別区分は可能である。更に18年(1943)初頭には高度測定探信儀用の6号型が完成し、これら3種の神器は空母及び駆逐艦・海防艦に優先的に配備された。空母から海防艦までの需要に応じる為、小型化が徹底されたことは言うまでもない。性能は米英独なみであり当時のトップクラスのレーダーであった。


製作は主として日本電気及び日立製作所がおこなった。高性能マグネトロン開発が重要な要素ではあったが、イ-400の遣独(昭和13年1938)により参考になるレーダーの実物を持って帰ったことがおおいに貢献している。

 

 また、対潜型の水中レーダー15型(昭和15年測定距離5,000m、方位±30m)及び音響測定器16型(3,000mにて左右±15m)はそれぞれ昭和17年8月から装備された。昭和19年初頭に損失船が比較的多いのは装備の遅れによるものであった。
 これらの水上、水中レーダーの活用によって護衛艦としての海防艦は海上護衛総隊の基幹部隊となり護衛業務に邁進し、撃沈潜水艦83隻 撃墜攻撃機309という戦果を挙げることができた。この刊では昭和19年に日本海軍で起きた潜水艦の惨劇がフィリピンやバシー海峡で展開していた米潜水艦において発生した。