15.駆逐艦秋月対潜能力強化型 戊式40㎜機関砲及び15㎝対潜噴進砲搭載型 

改1型A型(秋月初期型25㎜4基搭載型後に戊式40㎜に換装)及びB型(10㎝65口径高角砲5基搭載型)の内、

改1型A
    秋月        照月        冬月       
    春月        宵月(よいつき) 夏月      
    望月        如月(きさらぎ)  弥生      

改1型B 
    清月        花月        大月
    里月        早月        夕月
    三日月      水無月       神無月 

上記の艦18隻は昭和17年10月(1942年)から18年7月(1943年)にかけて15㎝9連装噴進爆雷砲の搭載を終了しました。同時に対潜水中探信義及び音響測定器も艦橋下の艦底に設置しました。やはり、空母が潜水艦にやられているという史実を鑑みると水中探信義と音響探知機の高性能なものが必要になります。

後述していますので読んでみて下さい。

 この秋月は最後には残存艦全てに似たような改装をして行くわけですが、戊式40㎜機関砲の製造が若干遅れたのです。なぜなら独逸がスウェーデンから戦利品として取得した40㎜機関砲を遣欧潜水艦としてのイ-400があの清風格納庫に空母カタパルトと共に持ち帰ってから製造にかかったためでした。図面も不完全なものでした。ボフォースは米英にライセンス生産させていましたが、日本の物は完全なコピーです。戦後になって特許料を払うことになりましたが…。

 

151 噴進爆雷砲

噴進爆雷砲この兵器についてはほとんど資料が残っていません。唯一それと特定できるものは、終戦時の駆逐艦澤風が一番砲を撤去してその跡に試作15㎝9連装噴進爆雷砲を装備した写真が残っております。当時は対潜訓練艦となり横須賀で噴進爆雷砲の訓練をしていたようです。

またネットで噴進爆雷砲を検索すると乾(samurai inui)氏がこの砲の写真を発表されております。それによると空母瑞鶴や葛城等に搭載した12㎝28連装噴進砲に似た簡易型砲楯の中央に中空をにらんだ3×3の箱型の発射装置が見えます。ヘッジホッグよりは大型であったことがわかりますが25mm連装機銃の銃座を利用したものらしく推定ですが長さ1660×幅2000×高さ1600程の大きさのようです。

ところで、この兵器はヘッジホッグ(攻撃距離150m~250m)・スキッドを経てアスロックとなり対潜兵器の定番になるわけですが、この砲もまた15㎝9連装で口径15㎝ということですから、ヘッジホッグ大(口径137㎜)の大きさのものを40m±9m程の距離に噴射するものだと思っていたのですが、なんと射程は1000m~2400mもあるのです。音響探査がそんな遠くまで可能なのでしょうか?実史での日本のソナーは距離でも左右でも誤差が多く、操作員の個人的技量によって戦力化の程度に差があったようです。ですがここでは水中探信儀(水中レーダー)及びソナーがピンポイント攻撃まで可能な水準になったと仮定します。そしてこの砲をヘッジホッグ同様、前方への投射可能な対潜爆雷砲として諸々の対潜作戦可能艦艇に搭載します。結果は攻撃に幅ができ、有効な兵器になりました。日本のシーレーンは確保され資源の枯渇による生産の滞りという問題も解決しております。

島風・秋月級や夕雲級の魚雷発射管撤去跡に、また松型(和泉氏は“楡=にれ”級に搭載しました。)や海防艦の前方投射兵器として昭和16年(1943年)から装備されました。写真から推定のイラストを描いてみましたがご笑覧下さい。


これに伴いソナーは探知距離2500mの3号改を昭和16年同時に開発完了しています。17年から18年には4号、更に5号が完成、装備され主に対潜作戦艦の艦首下部に昇降式で装備されました。実際は以下のようでした。

 昭和8年九三式水中聴音機開発・水中探信儀同様 方向1,200m±100m 左右80m。 昭和18年(1943年)3式水中電波探信儀 1000m±50m 左右50m ピンポイントは不能とのこと。これでは使い物にならないので、この刊では昭和15年4月海軍艦政本部と日本ビクターの研究により3式改Ⅱ型水中聴音機・水中探信義(後Ⅳ型になる。)側的距離3000m左右誤差5m)を試作しました。その後昭和16年より日本ビクターと日本楽器、日立製作所(マグネトロン担当)で量産を開始し、16年5月には配備が可能になりました。実験は海防艦択捉及び哨戒艦2号(旧澤風)の2隻で行われ性能試験が行われ制式化され各艦に配備されることになりました。

 15㎝9連装対潜噴進砲は日本製鋼所で製作され、その砲架は25㎜連装機銃のものを流用し、射出塔9門は箱状ものを3×3の碁盤状にしたもので、発射時間の遅延で発射時の干渉を防ぐというすぐれものです。しかも投弾後、着水時には半径30mの楕円状になります。一弾が潜水艦を感知し爆発すると他の弾も連動し面の攻撃になることは無論です。また、対潜爆雷砲は12㎝対空噴進砲にならい一基あたり135発(15連射)を搭載定量としました。なお爆雷本体は直径15㎝×長さ86㎝ 炸薬10kg 総重量36kg 射程2400mとなっております。

以上の対潜兵器の刷新にともなって島風・秋月級及び夕雲・陽炎級には中央部魚雷発射管跡に左右各1基、更に可能なら艦橋側面に2基、対潜型の改松型には前部高角砲を撤去しその跡に、また、後部甲板にも15㎝噴進爆雷砲を搭載し、併せて戊式40㎜機関砲も装備することになりました。また、護衛部隊の護衛巡洋艦5500㌧型には14㎝2番砲跡、艦橋左右の同砲跡にも搭載した艦もありますこの後昭和19年には全艦本砲の搭載を終えています。

 新型対潜噴進砲は島風・秋月級及び夕雲・陽炎級には艦橋付近に1~2基、発射管撤去跡付近に2基、対潜型の改松型には前部高角砲後部に、また、後部甲板にも搭載し、併せて戊式40㎜機関砲も装備することになりました。また、護衛部隊の護衛巡洋艦5500㌧型には14㎝2番砲跡、艦橋左右の同砲跡にも搭載した艦もあります。この後19年までに対象艦全艦に本砲の搭載を終えています。

物語はこうです。

 ソロモン方面で膠着状態に陥った日米両海軍は作戦を潜水艦による互いのシーレーンの撃破へと転換した。ところが米海軍では潜水艦の行方不明が続出した。日本海軍ではこの前方噴進砲のお蔭で昭和17年には99万㌧もあった輸送船の損失量が海防艦の噴進砲装備によって昭和18年には70万㌧に減り以後は横ばいの状態になった。これは第1次大戦に護衛艦隊として参加した経験を十分に活かし、船団護衛陣形や敵潜発見、攻撃方法も十分研究討議された結果であった。更に昭和17年(1942年)2月には海上護衛総司令部が発足し、計画的に海防艦や改松型である楡型駆逐艦を整備することとなった。

また機動部隊を護衛する対空駆逐艦秋月型は勿論、対潜艦である島風型、夕雲型には水中兵器と共に重点的にこれらが装備された。部隊の護衛にあたる各艦の性能が大幅に上がったため米潜水艦が機動部隊を攻撃することはほぼ不可能になり、彼らは偵察任務に専念することにならざるを得なかった。これにより、輸送部隊及び戦闘艦艇の潜水艦による損失は激減している。

日本のシーレーンは昭和18年12月現在、完璧に確保されており艦艇の建造、航空機の製作に齟齬することは今のところないと言える。が、果たして米がこのまま黙っているか否かは不明である。