7.軽巡大淀級…重巡・軽巡各1案

 改大淀型  大淀 呉        昭和16年3.24 (1941)
                   仁淀 三菱長崎 昭和16年3.27 (1941)

                    黒部 
横須賀   昭和17年2.11 (1942)
                    鈴鹿 呉       昭和17年2.13 (1942)
                    有田 舞鶴     昭和17年3.06 (1942)
                    米城 室蘭     昭和17年4.11 (1942)

                    雄物 大連    昭和18年6.05 (1943)
                    吉野 鶴見    昭和18年6.30 (1943)

 

史実では、軽巡大淀は昭和14年の④計画で計画され18年に完成しました。
阿賀野級と同時期で設計も同じ薗田大輔造船監が行ったものです。遡って昭和6年に最上級(これも船体に問題があったわけですが…)を建造して後に重巡に改装し、13年の利根級を建造したけれど、これらの艦が搭載した50口径3年式2号20㎝連装砲は迎角を70度に修正したものの、ほとんど対空に関して役にたたずもっぱら従来の対艦戦闘で米巡洋艦を撃滅するという目的を持っていたとききます。確かにスラバヤ沖やバタビヤ沖第1次ソロモン海戦などの初期には米巡洋艦を撃沈するという機会もあり快挙をあげたのですが、しかし、それ以降は空母に随伴している利根、筑摩以外はこれといった活躍をしていません。
それでも昭和19年までは各艦健在だったのですが19年に大量にやられてしまった。

この刊では漸減作戦による艦隊決戦は否定しましたので、本来水雷戦隊の旗艦阿賀野級や潜水戦隊の旗艦大淀級は必要ではなかったのです。しかし、あの格好の良さを捨てる訳には行きません。それで最上級に乗せていた94式60口径15.5㎝三連装砲が迎角のままでも装填でき、対空戦闘に使えるようになったと仮定しますと、空母の量産に応じて空母部隊を守る防空巡洋艦の必要性が生じてきます。戦いは空母を中心とした機動部隊同士による航空機主力で展開されることが予想され、これに対応する防空艦艇の整備が急務となったわけです。
この方針の変更は昭和8年の実験において航空機が戦艦をも撃沈できることを実証できたからです。
これらの結果、装甲を施した改94(98)式60口径15.5㎝3連装砲2基を後部にも装備した軽巡洋艦が改大淀型となりました。なおこの砲は最上搭載の砲を改良し対20㎝砲弾用防御を施してあります。また迎角も80度となりその位置での給弾・装填が可能となりました。発射速度は6発/分。幅も3mほど広げ居住性と復元性を確保しています。このため原計画より排水量が300tほど増えています。魚雷兵装は完全に廃止し、対空火器は65口径10㎝連装高角砲と共に戊式40㎜連装機銃が初めて搭載され、25㎜3連装機銃との併用で対空弾幕の空白域をなくしました。

昭和16年から17年の間に汎用性のある巡洋艦として完成し、その通信性能の優秀さから航空戦隊や部隊、機動部隊の防空指揮艦として活躍しました。それは21号電探を改良した23号の探知能力が飛躍的に向上したためでした。本級は8隻が起工され全艦竣工しましたがその後も改造型が計画・建造されました。これらの艦については次回で触れます。

全長192m 幅19.8m 吃水6.8m 基準排水量10,000t 主機艦本式ギアードタービン6基(3番艦以降は駆逐艦の主機を2基搭載) 12万馬力 33ノット 航続距離18ノットで8700浬 兵装 装甲15.5㎝3連装×4基 98式65口径10㎝連装高角砲×6基 ボ式 40㎜4連装×8基 25㎜3連装8基