13.潜高中呂-201型

 実際に建造されたのは波-201型の潜高小型です。この潜水艦は寺田征四郎造船監の設計によるもので基準排水量320t、水中440t全長53m×4m×3.44mという小型潜水艦でした。53.3発射管を2門、搭載魚雷は4本という兵装であり局地戦、主に日本本土防衛用として建造された潜水艇です。
驚くべきはその水中速力14㌩急速潜航15秒以内という性能であり、船体中央の中舵による容易なツリム作成を可能にする設計の斬新さでした。惜しむらくは船体が小型すぎて3000浬の航続力しかなかったことと、竣工が1944年になってしまったことです。

筆者はこの潜水艦を基準排水量750t水中950t 全長73.5m×6.4m×4.2m、出力1000/4000馬力、 速力15㌩/21㌩、水中聴音機3式・探信儀3式改Ⅱ型(側的距離3000m・左右誤差5m海防艦に搭載のものの小型バージョン)、乗員38名の呂号潜水艦にしたいと思っています。ちょうどUボート位の大きさです。因みに発射管は4門魚雷10本、潜航深度は130mとします。そして、この艦の量産を進め、ガトー級並に200隻ほど整備することにしました。これらをもって米軍の輸送船団攻撃に充てるのです。昭和17年から始めれば18年には早くも実戦配備が可能ですし、この艦の攻撃により米軍の西進はかなり遅れたでしょう。南方島嶼を基地とし、南太平洋から東に展開し、米のロジェスティック部門を脅かすような作戦が実現可能となります。昭和18年にロジェスティックを襲撃する作戦を実行出来たらな?というのはもはや願望です。いわゆる国力さえあれば出来たことなのでこれを行えるという前提にしました。しかしこの潜水艦は、船型が小型なので未発見の島を基地にするような完全に仮想の“基地”が欲しいところです。

 物語はこうなります。
17年8月真夏の神奈川県馬堀海岸は美しい海岸を埋め立てられ、今広大な工場用地に変貌した。山田長太郎海軍大佐と寺田明造船監はこれから量産される潜高中型潜水艦の生産現場視察でここを訪れた。潜高中は寺田造船監が心血を注いで設計した水中高速型潜水艦で基準排水量750㌧水中速力21㌩という性能を誇る。特に艦体中央部に設けた水中翼はかってないほどの水中での運動性能の向上に役立ち、潜航まで15秒という驚異的な高速潜水艦を誕生させた。

艦政本部の戦略変更にしたがって兵器の調達方針を変えたのだが、この他呂35型改潜水艦を新設した満州国大連海軍工廠造船部で大量建造に着手している。この艦は基準排水量1100㌧の中型艦隊型潜水艦であるが開戦前に設計建造が勧められており、用兵側の評価も高いので80隻の建造が開始された。航続距離は12,000海里に達し伊号潜水艦に匹敵する。

物語は以下になります
 汗をぬぐう額の目の前にはレールが車輛区のように整然と敷かれ、そのまま海に延び波間に消えている。その形はH型の連続である。Hの字の上部では艦首の部分と艦尾部分が並行して建造され横のバーのところで両者が結合される。この列が3本海にまで伸びている。
ここでは潜高中潜水艦を1年半の期間に150隻進水させる計画であり資材の調達、ブロックの建造はすでに京浜地帯の町工場で始まっている。ブロックは品川に集められそこから台船に乗せられここ横須賀工廠馬堀造船部で組み立てられる。小型のガントリークレーンの林立する様を見ているとここで始まるこれからの喧騒が早くも聞こえるようであった。
―それにしても水中21㌩とは驚きましたなぁ?
―潜舵を水中翼のように船体中央に持って来てみたのですが、ツリムを取るのもこの潜舵だけで可能ですし、ドイツから提供されたシュノーケルの採用を許可して頂いたので素晴らしいも船ができました。
―たしか、合衆国のフリゲートは18㌩でしたね。
―そうです。護衛艦なら振り切れます。
―護衛艦を振り切れるのか…。

山田大佐の驚きは感嘆にかわった。

使用実績
 1943年暮れ、ハワイ東方には帝国の潜水艦隊が潜んでいた。その数は25戦隊100隻を超える。この広大な海域からみればそれはゴマ粒ほどの集団だが、合衆国の輸送船団の航路上で待機する100隻以上の潜高中呂201型が20隻ずつ第1から第4までに別れ、さらに4隻ずつ5戦隊に分かれ要所・要所で攻撃体制に入る様は脅威だ。ハワイ東地域は合衆国輸送船の墓場と化している。
―感あり。本艦より10時の方向。潜水艦が多数。
―索敵を続けろ
―感あり、本艦より10時及び4時、いや3時、6時にも!
―何を言っているのだ。正確に報告しろ!
―いや、感が多すぎて特定できません。本艦包囲されています。
―最初の目標を追尾しろ!
―魚雷発射音!船団に向かいます。

この攻撃で48隻の輸送船団が内モロカイ断裂層に沿ってロスアンジェルスからハワイに向かっていた。攻撃は12時。昼の食事時間を狙った。田中喜八中佐率いる潜水艦隊は合衆国の補給輸送艦隊撃滅を目的とし、初めに輸送船団を
護衛する12隻のフリゲート艦を目標とした。魚雷は確実にフリゲート艦に向かって行く。ほぼ同時に3隻のフリゲート艦から水柱が上がる。護衛駆逐艦マッシ―は10時方向の目標に向け対潜攻撃を開始したが2時方向から発射された53.3㎝通常魚雷が命中、ほぼ同時に後方を航行していた弾丸積載輸送船は10時方向からの雷撃で爆沈した。そのわずか80秒後に残りのフリゲート艦11隻にも魚雷が命中し、艦首を失うもの、中央部から真っ二つに折れるものなどで船団は護衛部隊を失った。輸送船も仮設の機銃等で潜望鏡めがけて発砲するが命中することはできない。やがて、世にも残酷な輸送船狩りが開始された。    
護衛部隊がいなくなった船団を拿捕することも可能だったが今回は初陣であり以後の攻撃の見せしめの意味も込めて全艦撃沈を命ぜられていた。作戦は成功した。この作戦は1945年まで続けられ、合衆国はその後カサブランカ級やサンガモン級の護衛空母まで動員したが、新たに搭載した音響ホーミング魚雷の主目標は彼女たちであった。2~3万mの遠距離から発射され音響ホ-ミングは狩りの生贄としてまず彼女たちを血祭りにあげたのであった。

―ところで第一次船団攻撃にこの時使われたもう1種の魚雷は音響ホーミング式ではなく、直径30㎝、水中速力70㌩という超高速魚雷であり合衆国フリゲートが回避行動をとることは不可能であった。潜高中は発射管4門を備えるが予備魚雷は4本に過ぎない。しかし、対フリゲート艦用にはこの高速魚雷を2本搭載している。この作戦の中期から護衛空母を伴うことになった米輸送艦隊に対処するために高速魚雷に替えて音響ホーミング魚雷2本を積むことを忘れなかった。

因みに基地はトラックとラバウルでありハワイへは航続距離の問題でも解決していた。当初潜高型は甲標的を改造した極小型のものであったが航続距離で要求を満たすことができなかった。結局、潜高中呂201型がここまで大型化したのはほとんどが電池と燃料の増加によるものであった。
 開戦後の海軍の第2次戦略は合衆国にロジスティック機能を発揮させないことに変わっていた。この為停戦中に呂35型80隻が建造されたが、その終了を待たずに潜高中呂201型は150隻が建造されることになった。その後にさらに350隻が建造されることになっており、神奈川県馬堀造船工場はさらに拡大されることになっている。また、大連の新海軍工廠近くには地下式でこの潜高中呂-201潜水艦を大量建造できる量産工場が建設された。

 更に、この呂201への補給を目的に潜輸型潜水艦が企画された。当初は伊15型潜を改造してこの任務にあたらせたが間に合わなくなった。このため、これとは別に3000t級の大型潜輸が建造されることになった。戦闘海域近くでの補給や損傷艦の運搬を可能にするため司令塔が艦首にある特殊な構造となっている。調度クジラの親子が遊泳するように中央と左右の3か所から給油管延び同時に3隻への同時給油が可能になっている。また、食糧その他の補給は潜輸の背中に潜高中が乗る形で下部ハッチより食糧補給及び乗員の交代が可能になった。なお、水中でも補給可能な装置を開発中である。

―潜高中呂200型の活躍により強大な国力を有する合衆国のロジスティック部門に陰りが出てくる。これが新生帝国海軍の真の狙いであった。18年4月から1年もするとウエーク島、ミッドウエー島、マジュロ環礁などが物資不足になるようになった。本当にMOでは水が不足しているという電文が発せられたのである。ハワイからの補給が途絶えたためであるが、西海岸から物資を運ぶ船が次々と撃沈される現状に今のところ米海軍は打つ手がなかった。何しろやっと運んだ5万トン浮きドックが物資と共に沈んでいくのだから軍内部に焦燥感があふれ出した。

最後に試作水中高速潜水艦71号にふれます。昭和12年に試作され目的は南洋離島航空基地防御用の潜水艦として試作されたものです。基準排水量195㌧42.5×3.3×3.15という小形艦でベンツの600馬力×2基を主機として水中25㌩を目指しましたが予定されていたべンツの機関は搭載できず国産の400馬力1基になりました。が、水中速力は17㌩を発揮したそうです。昭和12年時点でこのような艦を建造したのは日本海軍だけでその水中速力群を抜いていました。これが、呂―200の基となりました。





 



以上で第1刊を終わります。


雑記1

  これら機器の進歩に伴って暗号も全面的に改められた。特にメキシコ、パナマ、プエルトリコ、キューバには多数の諜報者が部隊単位で配属された。彼らは大胆にも東部の造船施設、カンザス州など大陸内部の生産拠点、シアトルなどの東部地区の航空機生産拠点にまでメキシコ人に変装し進出した。また、前戦では放棄されたアッツ、キスカ両島は通信の重要基地として要塞化され、メキシコのレビジャヒヘド諸島と共に波号潜水艦の基地として昭和19年から重大な使命を達成する。

航空機編

爆弾の開発

真珠湾攻撃の時、帝国の受けた被害は航空機の損失のみで少ないものであったが無傷ではなかった。小火器による艦攻、艦爆の被害が案外多かったのである。しかも、在泊中の艦船からの迎撃や飛行場の30㍉機銃などによるものだった。  
技術本部では3式弾を開発中であったが試作用に30㎝砲弾を改造し、これに当たっていた。緒方技師はこの口径が80㌔爆弾の口径に丁度良いことが分かり、戦訓を活かしてこれを航空用爆弾として開発することを上申した。
 すなわち、流星艦爆が急降下爆撃する前にこの3式爆弾を投下する。艦爆には2発搭載し、敵の対空砲火を鎮圧すべく高度300~500mで爆発し、その焼夷榴散弾が敵の機関砲要員及び機関砲そのものを破壊する。機銃要員は防護盾のない状態で操作をしているのでこの方法で機銃を無力化しようとするものだ。
実験の結果極めて有効であると判定され、ただちに製造にとりかかることになった。更に、爆撃機からの攻撃も有効であることが判明し、面の制圧という戦術を手に入れることとなった。

◎飛行機編

ゼロ戦50型…2000馬力搭載型
紫電改・・・1950馬力
烈風改・・・2200馬力
震電改
天山
彩雲改艦攻型
流星艦爆・艦攻…2000馬力型
改疾風…陸海軍共通型
重爆撃機連山改
超重爆撃機“富嶽”
その他