44.駆逐艦 夕雲型

1   夕雲(ゆうぐも)   舞鶴工廠 昭和14年(1939) 12.05 竣工
2   巻雲(まきぐも)   藤永田造船所 昭和15年(1940) 1.14 竣工
3   風雲(かざぐも)   浦賀船渠 1.28
4   長波(ながなみ)   藤永田造船所 2.09
5   巻波(まきなみ)   舞鶴工廠 2.15
6   高波(たかなみ)   浦賀船渠 3.01
               
7   大波(おおなみ)   藤永田造船所 3.29
8   清波(きよなみ)   浦賀船渠 昭和15年(1940) 4.05
9   玉波(たまなみ)   藤永田造船所 4.11
10   涼波(すずなみ)   浦賀船渠 5.18
11   藤波(ふじなみ)   藤永田造船所 5.28
12   早波(はやなみ)   舞鶴工廠 6.2
               
13   濱波(はまなみ)   舞鶴工廠 6.25
14   朝霜(あさしも)   舞鶴工廠 7.17
15   岸波(きしなみ)   浦賀船渠 7.27
16   沖波(おきなみ)   舞鶴工廠 8.1
17   早霜(はやしも)   舞鶴工廠 8.22
18   秋霜(あきしも)   藤永田造船所 8.22
19   清霜(きよしも)   浦賀船渠 9.15
               
【昭和14年マル計画による改夕雲型】
20   妙風(たえかぜ348号)   舞鶴工廠 昭和16年(1941) 1.18
21   清風(きよかぜ349号)   石川島造船 1.23
22   村風(むらかぜ350号)   日立因島 3.19
23   里風(さとかぜ351号)   浦賀船渠 3.27
24   山霧(やまぎり352号)   藤永田造船所 4.08
25   海霧(うみぎり353号)   石川島造船 5.12
26   谷霧(たにぎり354号)   日立因島 5.23
27   川霧(かわぎり355号)   浦賀船渠 6.18
               
               
【改マル4計画による夕雲姉妹艦】
28   山雨(やまさめ5041号)   舞鶴工廠 昭和16年(1941) 6.29 竣工
29   秋雨(あきさめ5042号)   藤永田造船 7.1
30   夏雨(なつさめ5043号)   石川島造船 7.27
31   早雨(はやさめ5044号   浦賀船渠 8.1
               
32   夕立(ゆうだち5045号)   日立因島 8.3
33   村雨(むらさめ5046号)   石川島造船 9.07
34   時雨(しぐれ5047号)   舞鶴工廠 9.25
35   霰(あられ5048号)   藤永田造船所 9.3
             


※32~35に挙げた各艦は本来、高潮、秋潮、春潮、若潮という予定艦でしたが、私が駆逐艦“潮”型を創作して艦名をつかってしまったので今回やむを得ず改名しました。雨にちなんだものにしてみました。この時点で先代は健在ですが先代の名は改名するということを前提としてみます。 

【要目】
  基準排水量2,000㌧ 満載排水量2,480㌧ 全長119.3m 全幅 10.8m 吃水3.9
  機関:呂号艦本式タービン22軸 出力52,000馬力  35㌩ 航続距離:18㌩にて5,000
  ※主砲の10.5㎝への換装、前部魚雷発射菅、次発魚雷の撤去などで基準排水量は実史の夕雲型より減少しています。

【兵装】
  9865口径連装高角砲×3基 戊式40㎜連装機関砲×5  253連装機銃×4
  25㎜単装機銃×複数(艦によって差異あり20門から30門)
  92式四連装魚雷発射菅× 1基 159連装対潜噴進砲× 3
  15式聴音機× 2組   (3,000mにて左右誤差±15m)
  16式水中探信儀× 2組 
5,000mにて誤差±30m)
  159連装対潜噴進弾×3基(予備弾90発・10回攻撃)
  3式(1942製)爆雷(爆弾型)×130

  本艦については第1刊に書いたきり何の追加もせずにきてしまいました。
実史では艦隊駆逐艦の最後を飾る艦ですが昭和20年4月までに全艦戦没しています。戦没の内容を分析すると対艦戦闘で4隻、雷撃によるもの4隻、蝕雷1隻、航空機9隻 その他1隻という内容でした。やはり、より強力な対空火器と優秀な対潜機器が必要であったという結論になるのでしょう。この案に沿って考えたものが以下の解説になります。

  本稿における海軍は艦隊型駆逐艦の集大成として昭和11年に陽炎型を、昭和12年夕雲型(マル四計画)、13年に改夕雲型(改マル四計画)を計画した。下図は計画当初とは違い完成時の夕雲型であるが主砲は既に96式(98式)65口径10㎝連装高角砲に換装しておりこの姿が竣工時のものである。海軍内部では12.7㎝砲から10.5㎝砲への換装に反対意見が多かったが、航空戦隊よりの要請と連合艦隊司令長官の判断により換装が決まった。というのも主砲に予定されていた三年式5吋砲は砲弾の装填に難があり、迅速な対空射撃ができないことが主な理由であった。

  今回搭載した戊式40㎜連装機関砲は昭和12年にドイツ経由で入手し、ライセンス契約もそこそこに呉海軍兵器廠で試作した。海軍は今まで25㎜が担っていた近・中空域(2,000~5,000m)、特に中空域での効果大と判定し、直ちに採用することとして呉及び日本製鋼所等に量産を命じた。本稿の各艦に搭載されている戊式40㎜機関砲の戊とはボフォース社のボを取ったものである。米海軍と奇しくも同型の砲を積むことになったがこれは採用予定をしていた英国ビッカース社の40㎜機関砲がカタログどおりの性能に達しなかった為である。この砲の採用によって近・中・遠の空域がカバーされ対空用の弾幕が完成することとなった。

  艦としては朝潮級の旋回性能の悪さを船尾の形状変更と舵の変更で改善した。想定していた水雷攻撃による漸減作戦に見事に対応した艦であり、日本海軍の艦隊型駆逐艦の集大成であり、バランスのとれた艦型の美しさは秀逸である。



  で、私の話になります。今回出稿が遅れました。何となくこの美しい駆逐艦に手を加えることを躊躇したためです。陽炎級も一緒です。でも冒頭で述べましたようにこのクラスが全艦戦沈していることを鑑みると何とかしない可哀そうですよね。それで何とかしてみた格闘の記録です。
  第1刊でも12.7cm砲から10.5㎝砲への換装は行った図を発表しましたが、は前部魚雷発射菅を撤去しただけで、前部の次発装置やスキッドビームはそのままですし、単に前部魚雷発射管の後に爆雷搭載台を描いた簡単なもので海軍がこんな退歩みたいなことをするわけないという代物でした。そこで40㎜機関砲を載せることにしたのですが、艦型図のように載せようとすると砲座が大きすぎて乗せられません。



  それで最終的に以下に掲げる図になりましたが、その前に今回の修正点をお話しします。この図も元は雑誌“世界の艦船・日本駆逐艦史”から拝借したものですが元図が小さなものだったので、森恒英氏著の“日本の駆逐艦”を参考に徹底して書き加えまた修正しました。“世界の艦船・日本駆逐艦史”に掲載されている“長波”と“清霜”の写真は大変参考になり写真を優先して書いたものが第3図です。レーダー類のアンテナを付けたため、相当な艶姿になってしまいました。本来の美しさは影をひそめてしまいましたが米海軍並の通信・電波装置を装備するとこの様になるだろうという答えの一例として観て下さい。
  96式(98式)連装高角砲を5吋連装砲の跡に載せ、40㎜機関砲は中央部に、前部煙突脇と後部艦橋に25㎜3連装機銃はスペースの問題から図の位置に搭載しました。航空兵装優先ということから魚雷発射管は後部の一基を残して次発装置も廃止しました。駆逐艦という艦種は搭載すべき装置が非常に多くほとんどスペースがありません。艦型図の吃水線下の○は水中探信儀とソナーの装備位置です。
  処でこの艦がいやに多くなっていることにお気付きだと思いますが、ネットで見ていたら実史の昭和16年まで戦時計画で“夕雲改”が計画されており、艦番号と予定艦名まで挙がっていたのでこの際だから作っちゃえと想い25番から35番艦までを同型艦として加えました。
  また、第一刊で陽炎級の一部をレーダーピケット艦的なものに改造したという余計なことを書いてしまいました。図は正月休みに書き加えます。


 
 第4図に掲げた図は14年の緊急マル4計画で建造された28番艦“山雨(やまさめ)“~35番艦“霰(あられ)“までの各艦の雄姿です。クラスを代表して“時雨“を描きました。後部2番砲が無く、戊式40㎜連装機関砲が2基並列に搭載されました。これは昭和16年には94式65口径10.5㎝連装砲だけで夕雲型16隻、秋月型9隻、島風型6隻の合計31隻、合計192門。その他重巡、軽巡、空母分として約350門合計550門の砲身が必要となりましたが、砲身生産が間に合わなくなってしまったためだったのです。それで松型が5吋連装砲を搭載したように夕雲改級にも臨時の措置として搭載されました。17年以降に換装の予定でしたが、17年、18年に続々と94式(98式:実史での呼称)65口径10.5㎝連装砲搭載艦が竣工し換装の必要性がなくなり対空砲火強化型と呼ばれるようになりました。図は1943年8月の状態ですがその後艦橋横の搭載艇は撤去され救命筏となりました。これは泊地に連絡用舟艇が多数配備され艦載艇が必要なくなったことにも依ります。(初期夕雲型も同様)