48.防空巡洋艦 “十勝”級のその後
1. | 十勝 | 室蘭工廠 | 昭和18年(1943)01月05日 竣工 | 昭和15年計画 | |
2. | 石狩 | 舞鶴工廠 | 昭和18年(1943)02月10日 竣工 | 〃 | |
3. | 九頭竜 | 呉工廠 | 昭和18年(1943)02月09日 竣工 | 昭和16年計画 | |
4. | 四万十 | 三菱長崎 | 昭和18年(1943)02月10日 竣工 | 〃 | |
5. | 釧路 | 室蘭工廠 | 昭和18年(1943)06月23日 竣工 | 〃 | |
6. | 紀ノ川 | 室蘭工廠 | 昭和18年(1943)12月01日 竣工 | 〃 |
【要目】
基準排水量 11,200㌧ 満載排水量 14,980㌧ 全長 194.7m 幅 21.5m 吃水6.2m
主機艦本式ギアードタービン 4基 出力:120,000馬力 速力 33㌩ 15㌩にて 11,000浬
【兵装】
96式(98)10.5cm連装高角砲 × 12基(24門) 戊式40㎜連装機関砲 × 12基(24門)
25㎜3連装機銃 × 6基 同単装機銃 10門 搭載機 なし(防空専門のため)
始めに
もともとこの仮想艦隊を発表しよう思ったのは内田祐樹氏の“砲煙の巨竜”を読ましていただいた時この“十勝級防空巡洋艦”に触発されたからです。内田氏はこの著書でまだ見たことのない防空巡洋艦を図面で描いてくれました。本当に小さな図面で拡大するのに苦労しましたが中々の美形で瞬く間に惚れてしまいました。これを図1でもう一度ご覧いただきます。
本級は16年度防空巡洋艦阿賀野型、汎用型巡洋艦大淀型に続くもので、機動部隊・航空戦隊の防空能力の向上を目指して整備された軽巡洋艦であります。阿賀野型を防空巡洋艦に設計変更し配備したところ、艦隊側の評価が非常に高く、艦隊側からはより大型で防空能力の高い艦をとの要求があり、艦政本部はこれに応えた巡洋艦の設計に急遽取り掛かりました。防空艦としては先に駆逐艦秋月型が昭和16年から配備されましたが、旗艦としては秋月型は過小であり、巡洋艦程度の大きさが必要との判断が出てきたのです。十勝級は昭和18年半ばに5隻が完成し、防空巡洋艦は合計15隻に増勢され、各航空戦隊に1隻の割合で配備されました。実史でも防空型の巡洋艦は計画されておりましたが戦局の悪化のため未起工に終わり、この艦はそれを実現したものです。基本設計は第一刊「9.防空巡洋艦“十勝”級」で述べましたが“砲煙の巨竜”の著者内田弘樹氏であり、氏にはB-65及び本艦を設計した造船監として本稿に参加して頂いております。
艦政本部では96式(98式のこと)65口径10㎝連装高角砲を出来るだけ多数搭載することで防空に対する要望に応じるとともに、航洋性を考慮したため1万トンを超える大型艦となりました。また、空母機動艦隊に随伴するため速力も33㌩を確保し、水中抵抗減少のため阿賀野・大淀と同じバルバスバウを採用しています。98式65口径連装砲の“大量搭載”は阿賀野の流れを汲むもので連装12基(24門)の搭載は他国に例がなく、磁気感知信管の開発、装備とともに遠・中防空域での命中率が飛躍的に上がり、ほぼ理想としていた防空体制を構築することが出来ました。
追記ですが六番艦紀ノ川については、始め“紀ノ”としていましたが“紀ノ”ではあの大阪と和歌山を分け、高野山を巡る大河が想い描けないので今回敢えて“紀ノ川”としました。“川”まで入った艦名は初めてです。只軽巡“多摩”は多摩が良く、軽巡“多摩川”では雰囲気出ません、艦名って難しいですね。
【その活躍】
同級の三番艦九頭竜と四番艦四万十は初陣として18年(1943)3月2日~3日のビスマルク海海戦に参加した。この作戦は東部ニューギニアで玉砕したブナとギルハを奪回すべくラエへの物資緊急輸送が目的であった。実史では駆逐艦朝潮、荒潮、白雪、時津風が撃沈され、更に輸送船団8隻全てが撃沈され惨敗を喫しましたが、本稿では空母艦載機の迎撃と防空巡洋艦九頭竜と四万十の直衛により米陸軍第5空軍の爆撃機80機中28機を撃墜、36機の損害を与えこれを殲滅した。尚、このラエ派遣輸送船団の直衛には対潜空母横須賀型の“横須賀・長崎・佐世保・大阪・神戸”の5隻の他、海防艦一六型6隻・零五型9隻も参加した。紫電改は20㎜機関砲の威力と機体の防御力をいかんなく発揮し大活躍であった。加えて、第7、第8航空戦隊の改翔鶴型正規空母 祥鳳・龍鳳、軽空母天城・笠置(紫電改42機、烈風54機)、巡洋戦艦瑞穂・秋津島、新鋭駆逐艦潮、夏潮、夕潮、早潮をはじめとする防空駆逐艦群も別働隊として参加、米第5空軍の戦闘機隊はもとより、ポートモレスビーから発進した陸軍のB-25攻撃隊にも波状攻撃をかけ迎撃に成功した。ポートモレスビーには艦上攻撃機流星100機により爆撃を実施し、航空基地機能を粉砕。実史ではB-25によるスキップ爆撃がこの戦いで実践され有名になるが、本稿では低空爆撃に入る前に紫電改による攻撃で損害を被る機が多く、スキップ爆撃は無効であった。この海戦を契機に海軍は攻勢に転じ珊瑚海より東が海戦区域となる。
【1944年までの推移】
十勝級を再登場させるため再検討してみました。内田造船艦(内田祐樹氏)の見解を否定するものではありませんので最初にお断りしておきます。誤解のないように願います。主な改正点は以下のようなものです。まず、乾舷を50cm、同じく吃水を80cm増大しています。航洋性の確保のための措置で船体の深さを1.3m増やしたことになります。また、艦尾からの追い波を防ぐため40㎜装機関砲を搭載する時に艦尾の形状も改修しました。昭和19年(1944)には煙突後方の舷側装備用の射撃指揮装置を煙突基部及び後部に移設し、この場所に25㎜機関砲6基を搭載しました。短艇は艦尾のエレベーター内部に格納することになりました。
艦橋は改修により艦尾方向に増設され通信、防空指揮等の部屋となり、マスト基部には戦術指揮室(CIC)が増設されています。また、舷側の10.5cm高角砲は波浪の影響が大きく拡幅して波浪対策をしました。これにより機動部隊の防空艦としてほぼ完成しました。先に述べたように機動部隊では十分な活躍をしましたがその後は軽巡日高型が量産されましたので、防空巡洋艦としては本艦が最後となりました。
【その後の推移】
上図は本級の昭和16年度計画の三番艦九頭竜、四番艦四万十、五番艦釧路、六番艦紀ノ川です。いわば後期艦です。開戦が予想されたため完成が急がれ、艦橋及び上部構造物が簡易構造となり妙高型に近い艦橋になりました。しかし、基本的には阿賀野型や汎用型巡洋艦大淀型の艦橋を踏襲しております。この艦橋は防空にまで対応するよう設計・計算され、昭和の巡洋艦として完成されたものですが電波機器の発達はこれを凌駕し、より大型の構造が必要となり改修されたものです。
改修に当たっては経験豊富な呉海軍工廠が主体となって当り、以後の重巡、軽巡のモデルとなりました。カタパルトを不要にしたのも彼等の主張の現われで、空母が多数就役し、その護衛専門艦になった本級には偵察機は不要であるとの主張を裏付けた艦となりました。彼等は実戦で損傷した艦を修復する過程で要不要の判別が行えるようになり、余分な装備の搭載を意見具申し海軍がそれを受け入れることになったからです。実史とは違い開けた海軍になったのです。