45.護衛空母 “直江津”級

1   直江津   三菱江南 昭和17年(1942) 08.21 竣工 護衛総隊
2   奈良   三光造船 09.27
3   熱海   大阪鉄工 10.28 航空戦隊(対潜)
4   姫路   播磨造船 11.19
5   仙台   函館船渠 12.05 護衛総隊
6   富山   日立因島 昭和18年(1943) 01.15
7   金沢   尼崎造船 02.19 航空戦隊(対潜)
8   豊橋   名古屋造船 03.07
9   秋田   浅野船渠 04.13 護衛総隊
10   京都   三菱江南 04.13
11   徳山   三光造船 06.13
12   高松   函館船渠 07.07

                              ※(部隊名は船籍を示す。運用上は適時所属を変更する)

  1319番艦 工作艦(後述)明石、津軽、隠岐、対馬、根室、来島、鳴門
  2021艦   潜水母艦( 〃)船体伸張型
  ※13番艦~21番艦は艦体を利用した派生型ですが、いずれ追記します。

  【要目】
      
基準排水量18,700㌧ 満載排水量23,950㌧   
      全長163m × 幅20.1m × 吃水8.83m
  飛行甲板長さ152.2 m×幅25.3 m(最大35.8)×高さ13.6m
      機関:石川島式タービン1基  15,000馬力  速力21ノット

   【兵装】
      戊式40mm連装機関砲×10基 25mm単装機関銃×1420
      カタパルト×2基(横式Ⅰ型37m×1基 横式Ⅲ型41m×1基  
      15cm9連装対潜噴進爆雷×1基 16型水中探信儀(3,000mにて誤差±15m)×2
      ※15型水中聴音機は空母のため設置中止

  【搭載機】
      戦闘機:紫電改×12機 97式艦攻又は東海改哨戒機16機(東海は12機)

  海上護衛総隊は対潜護衛空母“横須賀”(昭和16.9.30竣工)を受領すると直ちに護衛訓練に入り、17年10月には初期的な対潜攻撃方法を確立し、部隊編成に取り組むことになった。第1次大戦で体験した集団輸送方式の確立とその護衛方法の習得であった。話は変わるが真珠湾攻撃の立役者であった淵田中佐はこの時期功績により2階級特進、“少将”に昇進する。海軍史上最も若い提督の誕生であった。次期作戦はミッドウエー攻略であり活躍の場としてふさわしい作戦に彼も奮い立ったが運悪く3月下旬に盲腸炎を発症・手術をしたため艦隊勤務を外れミッドウエー海戦には参加できなかった。
 この海戦で日本海軍は史実のように負け戦を演じてしまう。機動部隊の主力である“蒼龍”は戦没、赤城は大破(のち廃艦)、加賀も中破という結果になり、第一期の機動部隊は壊滅した。ただし飛龍は無傷であった。機動部隊の再建は急務であったが以前より日本海で訓練中であった大鳳、祥鳳、瑞鳳、龍鳳の4隻は伊吹級天城、笠置、葛城、阿蘇の4隻とそれぞれ戦隊を組み、生駒、伊吹も翔鶴、瑞鶴と戦隊を組むことになり各艦は訓練終了後、新たに第一~第五航空戦隊を編成した。(各部隊は正規空母1隻、伊吹型1隻の2隻で編成)南雲長官は艦上勤務から離れ、山口多聞中将が司令の任にあたることとなった。

  一方、護衛総隊司令堀中将はこれを機に予備役状態であった淵田少将に白羽の矢を当て、山本長官に駆け合い、彼をして護衛総隊部長に抜擢するとともに、生還した蒼龍飛行隊長江草隆中佐(後に少将)を海上護衛における対潜攻撃部隊を創生する人事を断行した。目的は航空攻撃による対潜護衛を実現するためであった。江草はこれに見事に応じ、97艦攻・東海哨戒機による対潜訓練を重ね、竣工直後の護衛空母 佐世保、横須賀、呉、舞鶴の4隻を17年5月からそれぞれ船団護衛に投入した。日本は第1次大戦で駆逐艦による船団護衛を経験し、護衛方法については詳しい内容を掌握していた。しかし、大戦当初はその方法を活かすことなく単独で輸送に従事していた為、潜水艦による被害が次第に大きくなってきた。そこで江草は船団を組んで兵員・物資を輸送し、艦載機によって三次元攻撃を行う護衛部隊を考案した。

  シンガポールに向かう船団でこれを実施したところ潜水艦と思しき敵に数度遭遇したが、損失船は1隻もなく効果大であった。これを機に海上護衛総隊は海軍での重要度を飛躍的に高め、横須賀型護衛空母の建造を促進するとともに、早期に戦力化できる“早吸”型輸送艦の船体を改造した“直江津”型護衛空母の整備・大量建造を企図した。
 直江津型護衛空母は先の佐世保型の準同型であり、備砲、艦橋、等は佐世保型と同じもので、違うのは船体だけである。船体が大きい分搭載機が増大している。元がタンカーであるため補給能力は大きく重油(9,000㌧)、はもとよりガソリン、オイル、弾丸(10.5用40mm、25mm、対潜墳進弾)糧食まで補給できたため、艦隊では間宮に次いで重宝される艦となった。

  さて、私の解説になります。しばらく間が空きましたが少し風邪をひきスランプでした。以前早吸型を取上げた時、空母にも改造されたと書きました。その時、直ぐ早吸の船体の上に飛行甲板を載せてみましたがどうもしっくり来ません。高くしたり下げてみたりしましたが、どうもしまらないのです。結局13.6mにしたところピンとくるものがありました。そうしたら翔鶴と同じ高さでした。なんかあるんですね。米の護衛空母ボーグなどは15.8mもあり、その高さが荒天時の作業を安全に出来たなどと書いてありますが、あれはスキージャンプのように艦首に向かって1mほど上がっているのです。全体が高かったら重心が高すぎる気がしたので調べたらそんな結果でした。
  佐世保型には40mm機関砲を載せすぎましたので、今回は減らして25mm単装機銃を載せました。(佐世保も40mm機関砲を下しています。1942.10頃)トップヘビー解消の為で、備砲はこの2種類だけです。
  ところで日本の護衛空母と米護衛空母を何度も見て思ったのですが、日本は丁寧に作りすぎです。量産空母でなく、準正規空母仕様なのです。米護衛空母は上構を撤去した跡に機関砲付きの飛行甲板を載せ、開いた場所をシャッターや鋼板で覆うと言う簡単な改造方法です。ところが我方は改造空母にまで12.7cm高角砲を積み、カタパルトがないため速力22ノットぐらいの優秀船を丁寧に改造していったのです。本稿ではドイツから空母グラフツェッペリンの2番艦ペーターストラッサー用のものをイタリアに輸送する途中、強奪したことになっています。で、カタパルトは横須賀工廠で製作されました。結果空母は速力ではなく、隻数を持つことが大事と考えるようになり、量産という概念が生まれました。
  量産ということから空母改造を考えると和辻博士が設計したぶらじる丸級には船体にキャンバーやシーアがありません。空母の場合、格納庫甲板は平滑になっていることが条件ですから護衛空母にはぶらじる丸級の船体利用がベストだったと思います。本稿では米護衛空母と同様に通信機器は最新のものを搭載しています。このへんが仮想艦隊のなせる業です。

  ところでエセックスを始め米の護衛空母に多用されている防火シャッターですが、日本でのシャッターの歴史は古く、明治29年(1896)キネヤ社が日本銀行本店の玄関に設置したのが始まりだそうです。それから明治39年のサンフランシスコ大地震の時、その防火能力が評価され広まったそうです。その後昭和3年東京建鉄が海軍省の特命を受け空母鳳翔の防火扉としてシャッターを収めたのです。(シャッター協会HPより)日本も米空母負けず劣らず最初の空母からシャッターは使用していたのです。ただ、米は外壁の一部としてもシャッターを広く応用しましたが我方は格納庫内の仕切りのみに使い、舷側にこれを利用するという発想はなかったのです。 
  本稿では大鳳のこともありますのでシャッターは充分活用させてもらっています。知らないで勝手に使っていましたがシャッターが古くから日本で生産されていて良かったです。補足ですが1番艦直江津と2番艦奈良は船台上で改修工事が開始され、残り8隻は新造であります。




  今回は淵田中佐を登場させたくてこんな話になりました。何故かというと対戦当時の日本の提督は航空戦が判らない人が多く、ハンモックナンバー優先で艦隊決戦思考が強く時代を読み違えた提督が多すぎました。彼らを早くリタイアさせるか再教育し、航空作戦を主体とする戦闘を理解する若手の提督の育成が急務でありました。また空母の艦長は兵学校出身で搭乗員経験を有する者であることに賛成します。攻撃した経験のある人物が防御に回ってこそ現場に即したものの考え方が出来るからです。
  よくレーダーを初めとする通信技術で負けたと言われていますが、ある意味レーダーも日本のあの探信儀でそれなりに機能していました。日本が先に敵に気付いた海戦は多々あるのです。するとやはり、VT信管と物量、自由にものを考えさせる風土を持っていたことで勝ったのでしょう。本稿ではVT信管もどきの物は当方にもあることを再度お知らせいたします。次回は航空機を少し整理したいと思っております。