46.遣独潜水艦 伊-7級(伊-8)巡潜Ⅲ型

        伊-7    呉海軍工廠  昭和12331日(1937)竣工  
        伊-8    川崎造船所  昭和1312月5日(1938)竣工

  【要目】
        基準排水量2,231㌧ 水中排水量3583㌧ 全長109.3m 全幅9.10m 吃水5.26
        機関 : 艦本式ディーゼル22軸   
                     水上 :11,200馬力
                     水中(バッテリー)2,800馬力
        速力  : 水上23㌩   水中8㌩   重油800
        航続距離: 16㌩で14,000
                          水中      60浬    
        潜航深度: 100m   乗員100


  【兵装】
        40口径14㎝連装砲1基(2門)
        九三式13㎜連装機銃×2基(ホッチキス社のラオセンス生産、昭和10年)
        53㎝魚雷発射管  ×  6基(艦首のみ) 魚雷20
        呉式14型カタパルト ×1基   水上機 1

  
第一次大戦後、日本が統治を委任された南方方面において海軍は潜水艦を展開し、各艦に通信を試みたが不充分であった。このため充実した通信能力を備えた潜水艦が必要とされ、巡潜Ⅲ型と呼ばれる本級が誕生した。両艦は潜水戦隊旗艦として司令部機能も設けたため、排水量は2,000㌧を越え、乗員も80~100名という大型潜水艦になった。
実史での伊-8はハワイ攻撃では北方の監視業務につき、そのまま米西海岸を偵察、1942年9月~12月までガダルカナルで輸送及び撤退任務、1943年1月にはカントン島を砲撃、遠くフィジー、サモア方面の偵察など大戦初期は大いに活躍した。でもなんと言っても出色の活躍は第2回遣独使節の潜水艦に選ばれたことであろう。
日独伊三国同盟によりヒトラーからU-1224(後の呂-501)の無償提供を受けることになり、その予定乗員を乗せて1943年8月31日フランス・ブレストに到着、前年度の伊-30に続いて遣独目的を達成した。途中大西洋上でU-161と会合、逆探を提供され装備したが、遣独航海成功はこの新装置のお蔭であった。このあたりの状況は吉村昭著「深海の使者」に詳しい。
日本側から譲渡品は、酸素魚雷、潜水艦自動牽吊(けんちょう)装置=水中での潜水艦の姿勢制御装置、天然ゴムなどであった。ドイツ側からはベンツディーゼルMB501(Sボート=魚雷艇用)、電波探知機メトリックス、エリコン20㎜機銃、同20㎜4連装機銃(帰途装備)等とU-1224(後に呂-501)を贈られた。その後も活躍が続いたが最後は沖縄戦で、米駆逐艦ストックトン・モリソンと2対1の壮絶な戦いをして戦沈した。

   ※伊-8図面(この図面は写真を参考に書き込んでみました。)

  とまあ伊-8はその戦歴をみても素晴らしい艦であり、いずれ本稿に登場させたいと思っていた艦でした。なぜこの潜水艦が1/350で模型化されないのかよく分かりません。上図は竣工時を示したものでかなり書き込みました。大好きな姿でカッコいいでしょ!

  さて物語を始めます。
  その前にこの巡潜Ⅲ型の竣工時期を変更します。伊-8は神戸川崎造船所で起工後竣工まで4年2カ月もかかっていますが、どう見ても長すぎます。それで竣工を1年早めて完成を1937年12月5日(昭和12年)にしました。その後就役訓練を経て1938年6月(昭和13年)には配備に就く予定でした。しかし特殊任務が発令され、魚雷室の拡大、カタパルトの撤去と改修、搭載機格納庫の改装、14㎝連装砲を撤去し、25㎜3連装及び連装機銃を装備する等、呉工廠にて改造を受けました。そして1938年9月30日(昭和13年)長躯ドイツキールへと出発したのです。

  本稿では以前から日本の空母にもカタパルト装備されていたことが前提なっています。そのカタパルトこそ伊-8が持ってきたものなのです。実は伊-8の遣独はカタパルトと電波探知機を輸送することが第2の目的だったのです。

  伊-8がキールに着いたのは1938年11月29日でした。まだ大戦も始まっていない時なので往路では水上航行が可能で、大西洋の偵察も兼ねて気楽な航海が続きました。しかし、艦長内野大佐はドーバー海峡を通過することになんとなく胸騒ぎを感じ、遠くジェットランドまで北上し、ヴィルヘルムスハーフェンから運河を通りキールに入港する航路を取りました。

  独空母グラフツェッペリンは1938年12月8日ドイチェヴェルケ造船所で進水しました。調度、真珠湾攻撃の3年前になります。伊-8がキールに着いた時ツェッペリンは完成まであとわずかでしたが、艤装工事が進んでいるようには見えませんでした。
カタパルトの入手も目的の一つであったこの航海でキールにわざわざ入港したのは、ドイチェヴェケ造船所がグラフツェッペリン級空母の2番艦ペーターストラッサー用に製作したカタパルトが現地にあるとの情報が送られてきたからです。2番艦は建造中止になり、他の部材と共に所内に放置された状態になっておりました。 
以前からイタリアが空母アキーラ用に譲渡の申し込みをしており、ドイチェヴェルケ造船所では梱包までしたのですが、イタリア情勢が不透明で譲渡は実行されませんでした。

  伊-8はキールに入港し改修を受けており、艦長内野大佐は日本大使大島浩および帰国予定の横井忠雄中将(中心人物)と連絡を取り、搭載していた酸素魚雷とこのカタパルトを交換することを提案しました。横井中将は直ちに海軍司令官デーニッツ提督に申し入れ了承されました。酸素魚雷の射程4万mという距離に驚くとともに、当時ドイツ海軍が研究中であった追尾式魚雷の動力となりうると考えたのかもしれません。伊-8乗員は直ちに積載を開始し、3日間で搭載することに成功したのです。横井中将にはヒトラー嫌いのデーニッツ提督となら話が付くという思惑があったのでしょう。

  性能は圧縮空気作動伸縮式カタパルトで全長23m、2.5㌧の戦闘機を140km/時に、5㌧の艦爆を130km/時にする能力があり、カタパルトの開発で頓挫していた日本海軍にとっては喉から手が出る程欲しかった物件でした。30秒に1機の割合で発射する能力を持っておりましたが、大型の気蓄タンクに空気を貯めるのに50分もかかるという欠点もあります。伊-8は後部の射出機をハッチ式格納塔に改造し、ここに圧搾空気シリンダー、発艦用のトロリー、気蓄機の一部及びレールを隠匿したのです。外部からは全くわかりませんでした。また同時に拡張した飛行機格納塔に以下の物を運び入れました。

                           ・ボフォース40㎜機関砲(後部に装備)
                                   1934年に完成してから2500~3500mにおける弾道性能が高く評価され、
                                   各国が競って導入やライセンス生産を図った機関砲です。
                                   日本はその空域を埋めるためビッカースの40㎜機関砲を購入しましたが
                                   故障が多く水雷艇の 主砲に転用されました。
                                   本稿ではボフォース製40㍉機関砲を1939年(昭和14年)より日本製鋼所
                                   を主体として久保田鉄工などでライセンス生産を開始しました。
                                   兵員の体力差と艦艇の大きさを選ばず搭載するため、また生産能力の差を
                                   考慮して連装砲をメインに生産し、中空域に隙のあった対空射撃のむらを
                                   解消しました。
                                        ・60口径    ・初速850m  ・発射速度120発/分 
                                        ・最大射程   7,000m   
                                        ・有効射程 3,000m~4000m(艦攻や艦爆が射点に入る距離)

                           ・マウザー30㎜機銃(航空機用、ベルト式給弾)
                           ・ベンツディーゼルエンジンMB501(魚雷艇用)
                           ・電波探知機(SEETAKTfuMo22グラフシュペ­­ー搭載の物)
                           ・航空機用無線電話


    これらは大変貴重なものばかりで本稿を記すにあたって無くてはならないものでした。以前から本稿で活躍している戊式40㎜機関砲もこの時に運ばれ制式採用され戊式となったわけです。輸送にあたっては搭載しただけで射撃はできず、防水用の帆布に梱包した状態で行われました。砲弾は通常弾でした。この時、VT信管はついておりません。

  伊-8を書くにあったって今回はレーダーについても大分勉強しまた。ざっと書きますとまずこうなります。

                          1925年 八木・宇田アンテナ開発
                                      → 欧米各国は指向性アンテナとして研究開始、日本は無視。
                                            2本の指向性アンテナが感知する位相の違いから方向を感知。

                          1927年 岡部金次郎・分割・陽極型マグネトロン開発。
                                      →  欧米ではレーダー開発に利用。 近接信管開発に繋がる。(VT信管)

上記した2つは日本が太平洋戦争に負けた遠因です。電子戦の基礎であり、レーダーの基本中基本だった上記のものに、なぜ当時の軍上層部や技官等は気が付かなかったのでしょう。レーダーのことを“暗闇に提灯”といった海軍上層部には呆れてしまいます。でも実際、彼ら指揮をする立場だったことが日本にとって不幸だったとしか言いようがありません。処で陸軍がこういった新装備に積極的であったことを追記します。レーダーについては佐々木たけし氏の“ドイツのレーダー開発”に目を通すことをお勧めします。氏の研究は素晴らしいです。

  とまあここまで書き進みましたが、これ以降は伊-8に続く伊-400型に任せたいと思います。この後の遣独は伊-400が実施するようです。