51.工作艦“宗谷”級Ⅰ型
宗谷Ⅰ型 | ||||
1. | 宗谷(そうや) | 北海道と樺太の海峡 | 播磨造船 | 昭和15年 06.10竣工 |
2. | 鳴門(なると) | 淡路と徳島の海峡 | 浅野船渠 | 昭和15年 06.21竣工 |
3. | 対馬(つしま) | 日本と韓国の海峡 | 三井玉造船 | 昭和15年 09.12竣工 |
4. | 明石(あかし) | 淡路と兵庫の海峡 | 浦賀船渠 | 昭和15年 10.08竣工 |
5. | 関門(かんもん) | 山口と九州の海峡 | 横浜船渠 | 昭和15年 11.18竣工 |
宗谷Ⅱ型 | ||||
6. | 津軽(つがる) | 青森と北海道の海峡 | 播磨造船 | 昭和16年 01.25竣工 |
7. | 根室(ねむろ) | 北海道と国後の海峡 | 浅野船渠 | 昭和16年 02.18竣工 |
8. | 択捉(えとろふ) | 択捉とウルップの海峡 | 浦賀船渠 | 昭和16年 02.23竣工 |
9. | 国後(くなしり) | 国後と択捉の海峡 | 三井玉造船 | 昭和16年 03.22竣工 |
宗谷Ⅲ型 | ||||
10. | 紀淡(きたん) | 和歌山と淡路の海峡 | 横浜船渠 | 昭和16年 12.20竣工 |
【要目】
基準排水量18,000㌧ 満載排水量23,050㌧ 全長162.8m × 全幅20.1m × 吃水8.72m
主機:石川島タービン一基 9,500馬力 速力19.7㌩
【兵装】
戊式40㎜連装機関砲×6基(Ⅱ型は4基) 25㎜単装機銃 × 6基(Ⅱ型は8基) 15㎝対潜噴進弾 × 2基
水中探信義・聴音機 × 1式
実史では昭和14年(1939)7月、佐世保工廠で本格的工作艦“明石”を建造し、将来発生するであろう南方方面での艦船修理に備えた。基準排水量8,000㌧満載排水量11,036㌧の本艦は158.5m×20.5×吃水6.3の船体を持ち、19.2㌩の速力を有した本格的工作艦であった。昭和17年6月(1942)よりトラックに進出、19年3月のパラオ大空襲で撃沈されるまで損傷艦の応急修理に大活躍を行った。その為合衆国海軍からは撃沈すべき艦の第一候補に挙げられていた。
さて本稿ではどうなったでしょう。工作艦明石は昭和10年潜水母艦剱崎とともに特務艦(工作艦)として建造されましたが、本稿では後に軽空母伊吹級の一艦“生駒”として、昭和15~17年に空母に改造され機動部隊に参加しています。ですから昭和16年開戦時、海軍には旧式戦艦朝日を改造した工作艦と貨物船を改造した数隻が存在するのみで工作艦は無きに等しい状況でした。これでは遥か南方海域の戦場で艦艇が被害を受けても、いちいち本国に帰ってこなくては修理できません。昭和12年までの作戦が日本近海で敵艦隊を迎え撃つというものでしたから工作艦という概念が少なかったこともあります。しかし、それでも工作艦の必要性は高く、海軍は米海軍が1924年(大正13年)に建造した本格的工作艦“メデューサ”に倣って工作艦の研究は怠っていませんでした。明石も工作艦として完成させるつもりでしたが、開戦後は空母という前提があったため本格的な装備はされなかったのです。
話は前後しましたが工作艦の絶対的不足といった状況に対処すべく昭和13年、竣工したばかりのタンカー“玄洋丸”の設計図を元に、優先順位第一位で急速建造にかかった艦が工作艦“宗谷級”のⅠ型とⅡ型となりました。原型の玄洋丸は優秀船舶建造助成施設の助成を受けた船であったため、速力も19~21ノットを発揮する優秀船で元々艦隊に随伴する給油船として計画されました。その為船体中央部にオイルタンクとして非常に大きな空間があり、この部分をそのまま工作作業区域としたのです。中央部の原油タンクであった部分は2層の工作作業区及び錬鉄工場(この区画は天井が通常の1.5倍の高さにした。)として艤装され、天井にはホイストが縦横無尽に張り巡らされています。その下層階が鋼鉄等の材料倉庫となり、各階は数条の小型エレベーターで結ばれていました。優秀なドイツ製工作機械が配置され、各工廠から選りすぐりの職長や工員が乗船したので海軍工廠と同等の技術で修理が可能だったのです。その処理能力は一艦で海軍工廠の35%程度と見積もられ、巡洋艦の損傷艦首を現地で修理したこともありました。鹵獲した米巡洋艦“ミネアポリス”の仮艦首を装備したのも宗谷、対馬の実績です。
図1は宗谷Ⅰ型の鳴門です。船体はタンカーの中央部に一層工作区画を設け平甲板になっています。タンカーを基本に建造したので、速力は19.7㌩ですが日本に独行で帰港できるように6基の40㎜機関砲や15㎝9連装噴進砲を2基、水中探信義・聴音機一式と防御兵装はかなり充実しております。作業要員が430名も乗艦しましたので艦尾の居住区はタンカーの船室にもう一層船室を増加しています。熱帯地方での行動を考慮しているため戦艦大和同様、船室には大阪金属製の冷房装置が完備されています。本級10隻は下記のように配備されました。
・トラック基地2隻
・フィリピン,マニラ方面1隻
・シンガポール2隻(香港工作部を含む)
・サイパン1隻
・ラバウル 2隻
・艦隊随伴用及び補用2隻。
艦名は海峡名が宛てられました。当時、樺太南部は日本領で石油の生産までしておりましたので“間宮”海峡を命名したかったのですが“間宮”は給糧艦として連合艦隊のマスコットだったので諦めました。間宮といえば羊羹と云うほどの人気でしたから・・・。
図2は宗谷Ⅱ型です。津軽級とも言われていました。主な違いは作業要員の居住区の更なる拡充でありまして、後部居住区は3層となり、兵装はその分減りました。ちょうど米海軍の工作艦“メデューサ”の日本版のような艦型となりました。エアコンは無論ですが消火装置も最新のものが搭載されました。14m運貨船は図では2隻ですが前戦進出する時は運貨船6隻その他7隻の合計13隻を搭載しました。30トン運貨船も移動時には搭載しています。やはり、工作艦はまだ十分整備されていない戦域に進出するので必要な舟艇は自力で運ぶしかないわけです。上記のように宗谷型工作艦は各方面にバランスよく配備されましたので、造修能力は海軍工廠並の体制が整い損傷艦の復旧も早く縁の下の戦力として殊勲“甲”の評価を受けました。
尚10番艦の“紀淡(きたん)”ですが英国の工作艦“ユニコーン”並に全通甲板を持った艦になったのですが今回の稿には間に合いませんでした。構想だけはあるのですがまだまとまっていません。近い内に追記します。ここまで来たところで設計用のソフトが変わり当分描き進めない状態になっています。助け舟が今日来てくれましたので発表します。