61.練習戦艦 “扶桑”
ついに第2次大戦の旧海軍艦艇を題材に選びことになりました。あまり気が進まなかったのですが、先大戦中、扶桑・山城は実習練習として内地で活躍し、陸兵輸送任務等に就いていました。このままのんびり練習戦艦を行っていれば良かったのですが、昭和19年にいきなり山城とともに第一次渾(こん)作戦に投入され、スリガオ海峡にてろくな護衛もないままに駆逐艦からの魚雷を被り、最後は米戦艦の集中攻撃を受けて撃沈されるという悲惨な最期を迎えています。少しかわいそう過ぎますね。ということなのかこの独特の艦橋を持った戦艦は意外と人気者でして、仮想戦記小説でも一時期良く登場しました。しかし、そのままではなく連合艦隊の旗艦や指揮艦になったり、艦隊随伴油送艦になったりと形を変えたうえで活躍しています。
今回はこの艦をもう少し練習艦任務に専念できる様改装したらどうなるか?をテーマとしました。60年前私が小学校高学年であった頃「俺!戦艦は扶桑が好き!」と言った友達がいました。櫓(やぐら)マストと呼ばれていた艦橋が好きだったようです。当時からこの2艦についてはかなり鮮明な写真が発表されており、扶桑・山城は陸奥長門に次いで人気ものでした。昭和16年の要目を以下に記します。
【要目】
基準排水量 34,700㌧ 満載排水量 39,170㌧
全長212.75m × 全幅30.64m(水線下33.08m) 吃水9.69m
主機:艦本式ギアードタービン4基・4軸 出力75,000馬力
速力24.7㌩ 燃料搭載量5,465㌧ 航続力16㌩で11,800浬
【兵装】
35.6㎝45口径連装砲 × 6基 15.2㎝50口径単装砲 ×14基
12.7㎝連装高角砲 × 4基 短7.6㎝単装砲 × 10基
25㎜連装機銃8基 13㎜4連装機銃4基(重量1.2㌧)
水上偵察機3機 カタパルト1基 乗員1,396名
※短7.6㎝高角砲は英アームストロング社のライセンスを素に大正時代に多種の艦艇に搭載された高角砲です。
((靖国神社にて展示中)、但し1933年改装時に全砲撤去。)
※13㎜4連装機銃(96式)はホチキス社から輸入された機銃で毘式40㎜砲の不調を補うため大型艦に搭載されたが、
開戦前に25㎜3連装機銃と換装された。
改造にあたっては以下の様な点が考慮されました。
・主砲の射撃管制には電探を使用する方針になったため、戦闘艦橋より上部を撤去し射撃管制用電探および対空・航海用電探を
多数装備する。
・電子装備を充実させ、同一のものでも複数装備し新兵教育を効率化する。
・15.2㎝副砲は全砲撤去し実習要員の居住区を拡張する。
・主砲は1番と6番を残し他の砲は撤去する。
・2番、5番主砲跡には新造の航洋型巡洋艦への搭載が始まった55口径20.3㎝3連装を搭載し、巡洋艦の砲術要員養成用とした。
扶桑の主砲の中に装備し砲内の実習面積を拡大した。
・3番主砲も撤去し98式65口径連装高角砲8基を搭載。高角砲要員の実習訓練用とした。要員の教育のため射撃管制は連装砲塔
2基に1個を充てた。
・艦尾にあったカタパルトは煙突後部に移設され、艦載偵察機の発進・整備要員の艦上実習が行えるように整備された。
・カタパルト跡は12.7㎜単装機銃の訓練場とし、左舷5基右舷4基計9基を搭載した。対空戦闘の頻度が増えた為、単装機銃にも
防御用の盾が標準化された。
【要目】
基準排水量31,700㌧ 満載排水量36,900㌧
全長212.75m × 幅30.64m × 吃水9.6m(バラスト搭載で吃水調整済)
主機:艦本式ギアードタービン4基・4軸 出力75,000馬力 速力24.7㌩
燃料搭載量7,500㌧ 乗員2,360名(内実習生1,050名)
【兵装】
35.6㎝連装砲 × 2基 98式65口径10.5㎝連装砲 × 8基
40㎜連装機関砲 × 5基 25㎜3連装機銃 × 6基
12.7㎜単装機銃 × 15基 9連装対潜墳進弾 × 2基
ということで戦艦扶桑が練習戦艦として上の図のようになりました。一つの艦に様々な訓練設備を搭載するとこのような艦影になりました。本艦に続き5番砲塔が爆発により撤去されている戦艦“日向”も類似した艦影となり練習艦と成りました。練習艦隊は内海化した日本海で実施されておりますが主な基地は舞鶴工廠です。戦艦のほかにも重巡妙高、高雄、青葉、軽巡多摩、北上、大井等が練習艦となりました。空母は鳳翔ですが小型すぎて日本海では使用できないことがわかり、初期の着艦訓練は鳳翔を使い瀬戸内海で行い、実戦を想定した訓練は舞鶴に18年から配備された赤城で行いました。赤城の大きさに新任の搭乗員は一安心したとのことです。
扶桑この改造により最新の練習艦として生まれ変わりました。艦長も実戦経験者が任官しました。訓練の教官も同様で実戦経験者が任官し新兵の教育に当たりました。また訓練中造機関係を志向する生徒は試験を経て技術開発に進むことも出来ました。
戦後も扶桑は練習艦の任務に当たり1953年退役しましたが、練習戦艦として活躍した11年間に延3万5000人以上の海軍軍人が巣立っていきました。