58.揚陸強襲艦 “海鷹”

    1.海鷹(かいよう)ex あるぜんちな丸 
                        昭和14年(1939.5.31竣工)三菱長崎
                        昭和18年(194355改造完成・三菱長崎

    2.天鷹(てんよう)ex ぶらじる丸  
                        昭和14年(1939.12.23竣工)三菱長崎
                        昭和18年(1943512改造完成・三菱長崎

    3.大鷹(たいよう)     昭和18年(1943      8.10  竣工・三菱長崎  

    4.春鷹(しゅんよう)    昭和18年(1943      9.11  竣工・播磨造船

    5.雲鷹(うんよう)       昭和18年(1943      9.18  竣工・横浜船渠

    6.祥鷹(しょうよう)  昭和18年(1943     11.3   竣工・播磨造船

    7.閃鷹(せんよう)   昭和18年(1943     12.18    竣工・横浜船渠

    8.跳鷹(ちょうよう)  昭和19年(1944       1.15    竣工・横浜船渠

  

【要目】客船時

 総トン数12,752㌧ 全長167.3m × 全幅21.6m × 吃水8.8m

 主機ディーゼル2基 出力16,500馬力 最高速力21.7㌩ 航海速力17㌩

 昭和14年(1939)5月31日竣工

  以前から空母に改造するならこの船が一番だと思っていた船があります、大阪商船が南米航路用の豪華貨客船として建造した“ぶら志る丸”級です。同社の嘱託“和辻博士”が設計した貨客船で、実史では“あるぜんちな丸”と同型船でした。この客船はシーアが無く、船体は平面で構成されています。ですから小型客船の割には重厚なシルエットを有していますが、シーアが無いということは格納庫で搭載機を移動するのにも余計な力を必要としないし、飛行甲板を貼るのにも柱の長さを変えることもなく航空母艦に改装するにはぴったりなのです。この船は海軍の優秀船舶建造助成施設によって三菱長崎造船所で建造されました。ところが海軍が徴用する前に、何のはずみかこの船は陸軍に徴用されてしまいました。陸軍はかねてより神州丸級で揚陸用艦艇を建造していましたが、戦線が拡張・複雑化する度、総合的な揚陸専用艦(空母型)が必要だと考えるようになりました。揚陸艦1隻で制空と揚陸作戦を同時に行うことを考えていたのです。ぶら志る丸はその要求にぴったりでした。陸軍は本艦取得を海軍に頼み込み、開発中の磁気探知装置の技術を公開することと引き換えに本艦を取得したわけです。実史ほど陸軍と海軍の仲が悪くないという本稿ならではの柔軟な組織の在り方です。完成していたぶらじる丸(天鷹)・あるぜんちな丸(海鷹)の他、この設計図面を基に大鷹(たいよう)・春鷹(しゅんよう)・雲鷹(うんよう)・祥鷹(しょうよう)・閃鷹(せんよう)跳鷹(ちょうよう)の6隻を追加建造しましたが、これら6隻は新造時から揚陸艦として建造されたものです。陸軍独自の揚陸作戦方針に従って、神州丸級とは全く違う艦型となりました。世界初の本格的揚陸強襲艦の誕生でした。

 【要目】

      基準排水量13,600㌧     満載排水量16,700㌧ 
        
全長171 m × 全幅23m(一部装甲を貼る) × 吃水8.7m
        
飛行甲板;長さ169m × 幅25m(最大幅38.85mエレベーター幅含む)   
        エレベーター舷側×1基 甲板部×1基  カタパルト41m×2条 
        
機関ディーゼル2基  16,500馬力  速力22.5㌩

   改造に際しては出来るだけ貨客船としての兵員収容能力を残す方向で進められました。すなわち、後部は14m運貨船14隻を搭載するスペースとして平坦な甲板を残し前半部に搭載機の船内整備部分を設けました。格納庫というより整備工場と考えた方が良いスペースです。元優秀貨客船としての面影は船首と船尾にしかありません。昭和17年に完成した正規空母“駿河”のサイドエレベータが思ったより優れたものだったので本艦にも採用され、整備工場のスペースの拡大に貢献しています。また、艦橋は基本的には護衛空母型なのですが陸軍が居住区に煙路を通すことを嫌がり、艦橋後部に斜めに張りだした煙突を取り付けました。このため遠目からは大型空母と見間違えるほどでした。

  搭載機は3式戦(飛燕改実史5式戦)や4式戦疾風などを戦爆として搭載し、対潜爆雷なら2乃至4個、爆弾なら250kgまでを搭載しました。無論、着艦装置の付いた空母搭載型です。これに東海型偵察機にレーダーを積んだものが指揮機として搭載されておりますが、格納庫は艦の前方の極狭い範囲なので東海などの大型機は露天係止です。搭載機の候補に挙がっていたㇱコルスキー型のヘリコプターは1937年には飛行に成功したとの情報は掴んでおり、開発に掛かる予定でしたが本艦就役当時は実用化状態になっていません。また、カ号観測機は搭載量と速度の関係から採用が見送られ、哨戒機“東海”が輸送機型まで開発されこれを搭載しています。この機は各空母への連絡用、負傷者の救急搬送用として550機が生産され艦隊の手足の如く活躍しました。

  上図は1944年6月木更津沖に仮泊中の“大鷹”です。海鷹級8隻や讃岐級12隻、佐世保級20隻、直江津級12隻などの整備が進んだため、実史とは違い新田丸級は空母に改装されず病院船や輸送船として活躍しましたが“鷹”クラスの空母が欲しかったのでこの“海鷹”級に全て艦名を頂きました。ただ“沖鷹”や“雲鷹”は艦名としてふさわしいとは思いませんでしたので辞めました。
  揚陸艦はこの後、現代のように大型になりましたが、米海軍も小型のイオージマから始めましたので、我方もぶらじる丸改造型から建造に入りました。しかし原点は陸軍の“神州丸”であったことは間違いありません。陸軍は意外と進歩的な組織であったことを改めて感じました。